えいちゃん(さかい きよたか)

えいちゃんのぶろぐ

entry_top_w.png


クリストファー・ノーラン監督の「インターステラ」を見ました。

これを見て思い出した映画が二つあります。一つはスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」で、一つはフィル・アルデン・ロビンソン監督の「フィールド・オブ・ドリームス」。両方とも名画です。

思い出すに「2001年宇宙の旅」は退屈な驚きの奇跡の名画で、「フィールド・オブ・ドリームズ」は夢の中のアメリカそのものような、これも名画でした。とうもろこし畑とベースボールゲームということからの「フィールド・オブ・ドリームズ」への連想は安直でしょうか。この映画の物語の筋はもちろん申しますまい。ラストの方は「2001年宇宙の旅」のようなわけのわからなさで、わけもわからず、ぼくは泣いてしまった。その涙は49%がは悲し涙で、51%がはうれし涙で、うれし涙の勝ち。

SFというより、宇宙を舞台にした奇想天外な人間ドラマで、それらは、ぼくがこれからの社会を支える根のようなものになると、なぜか予感してもいるヒューマニティーあふれるもの。しかも、あのエピローグはこの映画の続編がありそうで、それも楽しみ。

そういえば、映画の前のたくさんある予告編でケン・ローチの新しい映画がこの春に公開されるそう。彼もヒューマニティーの映画作家だと思う。

ぼくの最近のキーワードは、使い古された、ありきたりかもしれない言葉「ヒューマニティー」なのです。

http://wwws.warnerbros.co.jp/interstellar/
entry_bottom_w.png
entry_top_w.png

物語には二つの型があると聞いたことがあるのでけど、一つはとても有名な「起承転結」で、もう一つは「序破急」。ハンガリーの現代作家、アゴタ・クリストフの「ふたりの証拠」は「悪童日記」に続いての二作目で序破急の破にあたるもの。

「悪童日記」の簡潔で乾いた独特の装飾のない文体はそのままに、語りは一人称から三人称になり、「悪童日記」が掌ほどの短い日記のような数ページを無数に集めたような小説だったのから変わり、「ふたりの証拠」では八つの短編の集りかのようで、三人称のその文体から、ぼくは、ヘミングウェイを超え、初期の丸山健二の研ぎ澄まされた文体を思い出したもした。

書かれている内容は、あの中上健次の最も豊饒であった「岬」から「地の果て至上の時」のあたりの小説をぼくに思い出させ、それは重く深く、昔、十代のころ、中上健次の小説を読んで、今の日本にこんなところ、まさしく土地、中上曰く「路地」があるのかしら、などと思ったことを思い出した。アゴタ・クリストフの小説からもヨーロッパにこんなところがかつてあったのだろうかと訝しく思ってしまうのだけれど、そこはヨーロッパの真ん中の平原に出没したすべてを飲み込んだこともある穴のようなハンガリーという土地のようなのだった。

この「ふたりの証拠」では所謂東側、ソビエト連邦の衛星国のようになってしっまいながら、ハンガリーのコミュニティーが少しづつ朽ちていく、そんな状況も描いているのだけど、ハンガリーの人々はそれでもすべてを手放しはしなかったのだとも、思う。抑圧されたソビエト社会主義、その昔、スターリンが作ったそれの内側からのレポートとしても読めもし、それはあくまでも内側からの日常のレポートに徹し、その崩壊の糸口となったハンガリー動乱には触れていないのだけれど。

ひさびさに文学に触れたという気がした「悪童日記」と「ふたりの証拠」に続き、完結となる三作目「第三の嘘」も読むぞ。






entry_bottom_w.png
entry_top_w.png
こんな夢を見た。ぼくは二階建ての一階はすべて庭になっている家に住んでいる。庭は背丈の低い雑草が生い茂る野原のようになっている。どこかに出かけようと、ぼくは二階から細くて少し急にな階段を降りる。すると、広くも感じられる野原のすみに黒い小型犬がいる。ぼくはその小さな黒い犬を飼っていたことをすっかり忘れていた。その黒い小さな犬は階段を登って二階にも来れずにいたのかな、と思う。ぼくは、その犬に近づき野原に腰を下ろし、抱き上げてみる。すると、黒い小さな犬はこれでもかこれでもかとその舌でぼくの顔をなめてくる。その舐められている心地よさの中で、今は亡き愛犬、レオのことを思い出し、レオの次にこの黒い小さな犬を愛してもいいかのかもしれない、と思う。

そこで目を覚ました。さて、この黒い小さな犬は何を顕しているのでしょう? 多くのインターネットで見かける夢占いでは、黒い犬は不吉の徴だそうだけれど、近所で散歩している黒いラブラドールレトリーバーは賢そうでかわいいけどな。ぼくが夢で見た犬は黒いスヌーピー、ビーグル犬であったよ。もともと、チャールズ・モンロー・シュルツの描いたスヌーピーのモデルは黒白のまだらの雑種だったそうだ。などと考えていたら、ジョン・アップダイクが書いた小説「ブラジル」の中で、こんな言葉があったのを思い出した。

「黒一色であると思っていたものをよく見ると、白い斑点を含んでいる。黒一色であると思っていたものをよく見ると。白い斑点を含んでいる」

色も言葉もイメージも、重なりあった幾層もの、幾重もの何かを含んでいる、と思う。ぼくにはぼくの、きみにはきみにしかない答えもあるらしい。では、おやすみZZZzzz.....
entry_bottom_w.png
entry_top_w.png


今夜は中央林間のパラダイス本舗に遊びに行きました。どんなお店かというと、飾ってあったキース・ヘリングの絵のようなお店だと思いました。キースの絵ってなんかいいですね。今夜はそれで、夕焼楽団の藤田洋麻さんのギターを追って、おやすみします。素敵な夜をありがとう。

http://niginigi.jp
entry_bottom_w.png
entry_top_w.png
YouTubeで1950年代から1960年代に活躍したブルーズ・マン"J.B. Lenoir"の名を入れて検索すると、ドイツの映画監督、ヴィム・ヴェンダーズが撮った90分ほどのドキュメンタリー"The Soul Of a Man"が表示された。見始めるとおもしろくて、最後まで見てしまった。こんなものがフリーで見られるなんて、インターネットって、YouTubeってすごいなぁ。

ヴィムに取り上げえられているブルーズ・マンは三人、Blind Willie Johnson、Skip james、そして、J.B. Lenoir。この三人のブルーズ・マン、どの人も何か不思議なキャラクター、ストレンジャーという言葉がどこか似つかわしい。昔、ヴィムのインタビューでKinksが好きだと言っていたのを思い出しだ。KinksのKinkyとは、ねじれた、よれた、変な、気まぐれな、変態のというような意味があって、Rolling StonesやBeatles、Animalsを選ばなかったそこの何かに彼のセンスの原点を感じてしまう。ちなみにぼくは往年の1960年代のブリティッシュ・ロックの中ではThemが一番、好きです。

この三人のブルーズ・マンの演奏と現代のミュージシャンによるそのカバー・ヴァージョンが映画の中で披露されているのだけど、そのカヴァー・ヴァージョンを演奏するミュージシャンがいかにも、ヴィム好みの人たちで、さすがに盟友、Ry Cooderは出てこなかったけれど、例えば、Nick Cave、Beck、Jon Spencer、James 'Blood' Ulmer、T-Bone Burnett、Los Lobos、Bonnie Raitt、Mark Ribot、Lucinda Willams、Cassadra Wilson、そして、Lou Reedの面々。

ブルーズはどこまでも永遠に旅をする宇宙船の中にあるというヴィムのメッセージのかっこよさ。

おもしろかったです。

このドキュメンタリー。マーチン・スコセッシが総合プロデュースした2003年のブルース100周年プロジェクトの中の一本。YouTubeでこのプロジェクトの他の映画も探して見てみようかな。

entry_bottom_w.png
entry_top_w.png
この前、映画を見たその原作本、アゴタ・クリストフの著した「悪童日記」を読んだ。映画では表されていないエピソードもいくちかはあるが、話の筋は映画と同じ。

ぼくはこの本の中の双子の兄弟を、とうてい怪物だとか、恐ろしいとかとは思えなかった。この双子の心の奥に、何か穢れていない何かを感じてしまい、アゴタ・クリストが表したかったものは、東ヨーロッパのある近い昔日の現実とともに、その穢れていない何かではなかったのか。その二人の少年の何かに較べて見れば、僧侶や大人たちの祈りすら、汚濁の中にあるように感じられた。そんなことを考えられる読了後は、この本の題が「悪童日記」ではなく原題である「大きなノート」の方がしっくりくるように思われた。

稀代の読書家でもあったらしいアゴタ・クリストフは三島由紀夫の「午後の曳航」を読んだことがあったのかしら。東と西や時代やらの差異を超えて、「悪童日記」と「午後の曳航」は隠されて内包されているテーマに同じような何かがあるように思われた。その同じような何かとは、ぼくが感じたこの小説の題が「悪童日記」よりも「大きなノート」こそふさわしかろうという、その理由とするところと同じこと。

これは三部作の一部目であるという。さて、二部の「ふたりの証拠」も続けて読んでみることにしよう。






entry_bottom_w.png
entry_top_w.png
秦野にあるひまわりヨガ道場にいつの間にか長い友だちになっていたゆふがほきららさんの「つぶ舞踏」を見に行った。

なんか、言葉にならないものがびしびし伝わってきましたぞ。その言葉にならない何かをきららさんはつぶという。きっと、つぶが飛んで、ぼくの胸にぷるるんとしたのだと思う。

近頃、きららさんは舞踏したい欲が高まっているという。なんか、その感じもわかります。ぼくも歌いたい欲からは離れられません。

「一部 つぶの行進」は能の歩き方のようだった、ときららさんに言ったら、そんなものもねらっていたという。そして、「二部 ヨガと生活」の中村八大、永六輔コンビの名曲「たそがれのビギン」に載せて、俗を巡り、「三部 92歳のきらら」の明滅するライトに、寂しさに暖かい美しさを感じてしまった、といようなことを帰りまぎわにきららさんに言ったら、それはえいちゃんの心の現れだよ、ときららさんはどきりとするような答えのようなものをくれたのだった。

この舞踏という表現、ものすごぐすさまじいほどのエネルギーを使ってしまいそうなのだけど、また近いうちに舞踏してください。見に行きます。

http://walls-and-bridges.com/himawari/blog.html
entry_bottom_w.png
<< 前のページ 次のページ >>
[291]  [292]  [293]  [294]  [295]  [296]  [297]  [298]  [299]  [300]  [301
plugin_top_w.png
カレンダー
01 2025/02 03
S M T W T F S
2 4 6
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28
plugin_bottom_w.png
plugin_top_w.png
えいちゃんのお奨め

ライブのお知らせ

ぼくのTwitter

plugin_bottom_w.png
plugin_top_w.png
最新コメント
[12/23 ロンサム・スー]
[07/27 gmail account]
[08/29 えいちゃん]
[08/29 みさき]
[05/18 えいちゃん]
plugin_bottom_w.png
plugin_top_w.png
プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
plugin_bottom_w.png
plugin_top_w.png
ブログ内検索
plugin_bottom_w.png
plugin_top_w.png
最新トラックバック
plugin_bottom_w.png
Copyright えいちゃん(さかい きよたか) by えいちゃん All Rights Reserved.
Template by テンプレート@忍者ブログ