えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
桜が満開ですね。本当に春。
お昼に町田の万象房で日倉士歳朗師匠のスライド・ギターのレッスンをしてもらいました。こんなにすごいミュージシャンからギターを教えてもらえるなんて、神さまからいただいた出会いに感謝、感謝です。ぼくが日本で一番、素晴らしいと思うミュージシャンは日倉士歳朗さんなのです。最近になって少しはスライド・ギターが弾けるような感じになってきました。うれしいなぁ。
その後、町田天満宮にお参りをし御神籤をひきました。
夜は相模大野のアコパで弾き語りをしました。この桜の咲く季節に毎年、歌ってしまう自作のお気に入りの歌があるのです。"Bad Boy"というこんな詞です。
♪♪♪
この暗い暗い夜を昼間に 胸につもった 悲しい気分を
ぶっとばすには どうしたらいい
着飾って 街をあるいたもんだぜ
毎晩 パーティーをひらいたもんだぜ
Oh Baby君はしってるかい
胸につもったBad Bad Blues ぶっとばせると 思ってたさ
いつでも どこでも 何度もMakin’ Trouble
頭のいかれた不良なだっただけさ
I’m a crazy lazy bad boy
Oh Baby僕は知りたいのさ
人生は風に負けないPine Trees
一杯花咲くCherry Trees
I’m a crazy, lazy
Bad boy, bad boy
Bad Boy, bad boy♪♪♪
ぼくの人生もこれから桜が満開に咲きますように。
さて、町田天満宮でひいた御神籤の言葉、その和歌は神さまが詠んだものなのでしょうか。とても美しい。こんな素敵な御神籤をいただきました。みなさまにもご多幸あれ。
「第四番 御神籤
吹(ふ)く風(かぜ)に
高峰(たかね)の雲(くも)も
はれ行きて
涼(すず)しく照(て)らす
十五夜(もちのよ)の月
運勢 大吉」
ゆめゆめうたがふことなかれ
最近、ひまつぶしみたく、公園で、にごり酒のカップ酒、秋田のお酒「桃川」を飲んで、おつまみはヒレカツとかコロッケで、公園でぼーっとしていて、幸せを感じてしまうのだけど、その時に胸に流れてしまう音楽がRolling Stonesの"As Tears Go By"。公園でママたちと子どもたちが遊んでいて、おじいさん、おばあさんが目を細めています。ぼくの目も細くなり、この名曲が胸にやってくるのです。詞を意訳してみたくなりました。どうかな?
「ある日の午後
ぼくはすわって子どもたちの遊んでいるのを見つめている
笑い顔を見て
けれど、それはぼくには向けられてないのだけど
ぼくはすわって、子どもたちを見つめて
ぼくの涙の流れるままにしている
どんなにお金があったとしても何も大切なものは買えないのさ
子どもたちの歌うのが聞きたいな
ぼくが聞いているのは
雨が地面に落ちていく音
ぼくはすわって、それを見つめて
ぼくの涙の流れるままにしている
ある日の午後
ぼくはすわって子どもたちの遊んでいるのを見つめている
昔と同じく
ぼくが遊んでいたように遊んでいるよ
けれどほんとうに楽しそう
ぼくはすわって、それを見つめて
ぼくの涙の流れるままにしている」
ロンサムスさんのバックでハーモニカを吹きました。Robert Johnsonの"Love In Vain"を訳すと「むなしき愛」なのでしょうか、「むだな恋」なのでしょうか? ロンサムスーさんの名言、「恋にむだはないよ」。やさしいなぁ。
文化人類学者という肩書ももつ今福龍太さんの著した「クレオール主義」を読了した。とても難しくて、よく分からないところばかりなのだけれども、それでもおもしろかった。「クレオール」って何だろうと問われて、この本からの浅はかもしれないぼくの理解では、それは、文化や人が幾重、幾層にも混じり合い、混血してゆく、その交通がもたらすその運動であり、そこから常に生み出されていく生成のことをこう表現しているのかなと思った。やっぱ、むずかしいですね。例えば、それをいい表しているかもしれない著者が引用しているロバート・L・スティーヴンソンの言葉がとても魅力的。
「外国というものは存在しない。存在するのは、ただ「旅人」と呼ばれる外国人だけだ。そして彼らはときどき記憶力の閃きによって、地上によこたわる差異に光をあてる」
その差異とそこからもたらされる混淆が美しいのをいい表したアリス・ウォーカーの言葉もこの本から引用してみて、ぼくはそれに普遍に通づるような愛を感じるのです。
「「ママ、どうして私たちは茶色や桃色や黄色で、いとこのみんなは白やベージュや黒なの?」「それはね、人間の世界はちょうどすべての色の花が集められた花園のようなものだからよ」」
きっと、そうだよね。おやすみZZZzzz.....