えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
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国立新美術館でミュシャ展を見た。展示室に入るなり鳥肌が立った。大きくて美しい絵がそこにあったから。
19世紀末、広告の時代の始まり、来る大量生産と大量消費の時代の予感を感じさせるそんな時代に、花の都パリでは、芸術家たちがその磁力に引き寄せられたかのように集まり、オーブリー・ビアズリー、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、アルフォンス・ミュシャの三人がそれぜれに描いたポスターが街頭には貼られていたはず。ビアズリーとロートレックの二人は19世紀の終わりとともにこの世を去り、20世紀にミュシャの一人だけが残された。
20世紀は国の独立と戦争の時代であった。ミュシャは20世紀のいよいよ始まった1910年に故郷のチェコに帰り、この「スラブ叙事詩」と題された20点の大きくて美しい連作の絵画を描きつづける。1918年は、オーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立し、新国家のために紙幣や切手、国章などのデザインを無報酬で行った。そして、つかのまの春の時であったかのように、1939年3月、ナチスドイツによってチェコスロヴァキア共和国は解体され、ミュシャはドイツ帝国に抗う退廃芸術家として尋問され、どのような尋問かは記録に残されていなく、それは拷問でもあったのかもしれない。ミュシャは体調を崩し、釈放され、その4ヶ月後の1939年の7月に逝ってしまう。しかし、「スラブ叙事詩」の20枚がナチスに焼かれなくてよかった。
第二次世界大戦の終わりとともにチェコは解放され、祖国は再び独立する。時の共産党政権は、ミュシャの愛国心との結びつきを警戒し、黙殺しつづけた。それでも、チェコの人びとの間にミュシャへの敬愛は残り、プラハの春の翌年の1969年にミュシャの絵画切手が数種発行されている。
鈴木邦夫さんのような人はこの「スラブ叙事詩」をどう見るのだろうか? 鈴木邦夫さんの敬愛する三島由紀夫はその死の前年にこのようなことを書いている。
「実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる」
おっと、脱線しすぎたようです。美術館のミュシャの略歴のところのには、たしか「スラブ叙事詩」が発表された時の解説として「スラブ民族の倫理的な発展」とあったと思う。
チェコの門外不出の芸術「スラブ叙事詩」を、もしも時間がありますならば、無心でご覧ください。国立新美術館では草間彌生展も同時開催されております。
ミュシャ展
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