えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
こんな夢を見た。とある海の入江にある一艘の船も停泊していない夜の海の黒い水の中に二人は飛び込む。水は黒いが、なぜかきれいな水の中を二人は泳ぎ始め、二人は自分たちが泳げるのを発見する。泳げるのがうれしく、泳げてよかった、と思う。二人は胸の奥で永遠を誓いあいました。
そこで、目が覚めた。いかにもフロイト的な恥ずかしい夢ですが、黒い海が美しかったです。
そこで、目が覚めた。いかにもフロイト的な恥ずかしい夢ですが、黒い海が美しかったです。
クリストファー・ロイドさんの著した「137億年の物語」を読了した。カラー口絵のたくさんはさまった歴史図鑑のような本です。507頁で2段組のヴォリュームの本で最後の方はななめ読みになってしまいました。しかし、読み通させたこの本はぼくにとって、やはりとてもおもしろかったということ。
歴史の変動に気候の変化があり、その気候の変化はプレート・テクトニクスという大地の移動によるらしい。最後の方の章には解決されなくてはならないたくさんの問題、例えば、人口の爆発的増加、人類の活動による生態系の破壊、貧富の格差の拡大化、エトセトラが書かれてあって、どれも深刻です。
この地球が生きものの楽園となったのはティアという星が地球に衝突し、月が誕生し、そこから、太陽風からの磁気シールドが生まれ、四季を生み出す地軸の傾きと安定的な公転も生まれたということです。なんという偶然なのだろう。その137億年の歴史の中で人類の歴史は1分17秒にすぎず、有史は3秒をすぎない。人類は悪いことをしすぎだとも思うのだけど、歴史に残るとはそういうことなのだろう。ほとんどの人たちは善い心を持った善い人たちだとも思う。
本を閉じて想像するに、今、新しい世界が訪れつつあって、その鍵は、インドのシャカ族の王子が見つけ、アショカ王が広めた生きとし生けるものへの愛を説く教えにあるのではないか、と思いました。
http://hon.bunshun.jp/sp/137okunen
こんな夢を見た。家の中に死んでしまったはずの犬であるレオがいる。ぼくは帰ってきたんだと思うと同時にまたいなくなってしまうのだろうかと思う。ぼくは四六時中レオと過ごすようにする。レオは普通に生きていて、いなくなってしまうことが信じられない。ある時、レオはぼくの部屋の布団の中にもぐりこむ。するとレオがいなくなってしまった。そして、その布団の中に狼やハスキーのようななりであったレオとは違う一匹のビーグル犬が残されている。胸に張り紙が貼られていて、それは、この犬は日本のビーグル犬です、と書かれている。確かにビーグル犬は西洋の犬だけれども、日本のビーグル犬とはどういうことだろう。そして、このビーグル犬が家にやってきた、あたかも贈られてきたのだから、飼おうと思うのだけれど、父と母をどうやって説得するかを思案し始める。
そこで目が覚めた。夢を見ている時、ひと時のハッピーさがありました。レオよ、ありがとう。
そこで目が覚めた。夢を見ている時、ひと時のハッピーさがありました。レオよ、ありがとう。
園子温監督の「希望の国」を見ました。原発事故に生活と人生を翻弄された三組のカップルが主人公。
大矢直子の演じる智恵子がよかった。フェデリコ・フェリーニ監督の「道」に出てくるジュリエッタ・マシーナ演じるジェルソミーナを思い出した。この智恵子は高村光太郎の「智恵子抄」の智恵子なのかもしれない。智恵子の口癖は「うちにかえろうよ」。夏八木勲の演じる泰彦はいつもこう返す、「そうか、十分後にかえるよ」。
ラストの展開は中上健次の小説の物語世界を思い出した。
「希望の国」の希望だけれど、その希望は、たった一つの小さな遠くの星のようにほんの微かに光っているように思えたけれど、たしかに光っているのです。
http://www.kibounokuni.jp/
大矢直子の演じる智恵子がよかった。フェデリコ・フェリーニ監督の「道」に出てくるジュリエッタ・マシーナ演じるジェルソミーナを思い出した。この智恵子は高村光太郎の「智恵子抄」の智恵子なのかもしれない。智恵子の口癖は「うちにかえろうよ」。夏八木勲の演じる泰彦はいつもこう返す、「そうか、十分後にかえるよ」。
ラストの展開は中上健次の小説の物語世界を思い出した。
「希望の国」の希望だけれど、その希望は、たった一つの小さな遠くの星のようにほんの微かに光っているように思えたけれど、たしかに光っているのです。
http://www.kibounokuni.jp/
町田のWest VoxでのセッションでDoorsの"Cars Hiss By My Window"を歌いました。Doorsのブルースです。Doorsには二人、作詞・作曲をする人がいて、一人はギタリストのRobby Kriegerで、も一人はボーカリストのJim Morrison。Jimの作った歌はどれもブルース臭くて、その白眉がこの今夜、歌った"Cars Hiss By My Window"。JimはUCLAの大学生のころ図書館に通い詰め、古いカントリー・ブルースばかりを聴いていたそうだ。
Jimは1971年に27歳の若さで逝ってしまう。JimはBob Dylanと並ぶロックの幻想的な詩人を呼ばれていた。最近のBobの素晴らしい音楽を聴くにつれ、Jimにも生きていて欲しかった、すばらしい詩を吟じ、Jimにしか歌えないブルースを歌っていただろうと思うのです。
(不道徳な)Jim MorrisonのブルースとDoorsの音楽はアメリカの自由の精髄だと思う。
The Doors - Cars Hiss By My Window
http://www.youtube.com/watch?v=QpPB6DRUIWo
Jimは1971年に27歳の若さで逝ってしまう。JimはBob Dylanと並ぶロックの幻想的な詩人を呼ばれていた。最近のBobの素晴らしい音楽を聴くにつれ、Jimにも生きていて欲しかった、すばらしい詩を吟じ、Jimにしか歌えないブルースを歌っていただろうと思うのです。
(不道徳な)Jim MorrisonのブルースとDoorsの音楽はアメリカの自由の精髄だと思う。
The Doors - Cars Hiss By My Window
http://www.youtube.com/watch?v=QpPB6DRUIWo
会社が赤坂にあり歩いて行ける距離ということもあり、金曜の夜は会社帰りによく首相官邸前あたりやら国会議事堂前やらに脱原発のための抗議集会に行ってみる。近ごろは人も少なくなったがちゃんと続いています。
抗議の人たちのその人ごみにまぎれていると、ぼくも含めてのみんなが砂粒の集まりのように見えてきて、ぼくは、昔、見たフェデリコ・フェリーニ監督の「道」という映画のあるシーンを思い出した。ジュリエッタ・マシーナ演じるジェルソミーナがリチャード・ベイスハート演じる綱渡り芸人に、私に生きている意味はあるのかな、と問いかける。綱渡り芸人は道に落ちていた石をひょいと拾い上げ、こんな石でもそこにある価値はあるんだよ、と答える。その石をわたされたジェルソミーナは輝く瞳でその石を見つめる。そんなシーンだった、と思う。この映画は必見です。
その石が金曜の夜の人たちにあわさり、一つ一つでは力のない砂粒にも、むしろそこにある価値はあって、それが集まっているのだ、と思う。綱渡り芸人が言うようにすべてのものが価値があるとしたならば、東京からは見えないところにある原子力発電所の価値とは、電気を作ることではないのではないか、ましてや核爆弾の元を作ることなどでもなく、何か別のことではないか、と思いをめぐらすと、言葉にならない答えが近づいているようにも感じるのです。
さて、明日(2012年11月11日(日))の午後三時からの国会周辺での抗議集会はいろんな人が集まってくるだろう。集まろう! そんな人たちの胸の奥で歌われるとうれしい歌がぼくの心に空から降りてきて、それに「砂つぶと石ころ」という題を付けた。こんな詞を初期のボブ・ディランやウッディー・ガスリーを聴きながら読んでみてください。
-砂つぶと石ころ-
みんな砂粒みたいだよ
おじいちゃんとおばあちゃんがいて
パパやママや子どもたち
叫び声はいつのまにか
誰かを呼ぶ声になった
そして、ちりぢりになって
夜ふけの街なみに消える
ぼくは石ころになった
石ころだからころがるよ
でこぼこ道に雲が出て
坂道、夜道、遠回り
だけど、打ちつけないでおくれ*
こなごなになってしまった
真夜中の森の中、消える
ぼくたち、空に放ってもいいよ
きっといくつも星になって
暗いこんな夜空も輝く
誰も迷子にならないよ
みんなは遠くに光っている
どこからだって聞こえるよ
遠い夜空から歌う
みんな、砂つぶみたいさ
石ころみたくころがった
みんな、ひとりぼっちみたいさ
友だちがいるよ
きっと、きみのすぐそばにいるよ
明日の朝になったなら
また、満員電車にゆられている
きみはみどりのタクシーを流し
知らない誰かを乗せている
いつも大丈夫、大丈夫だよ
今度の土曜の朝には
ま新しい歌を歌ってあげる
★11.11反原発1000000人大占拠
http://coalitionagainstnukes.jp/?p=1275
抗議の人たちのその人ごみにまぎれていると、ぼくも含めてのみんなが砂粒の集まりのように見えてきて、ぼくは、昔、見たフェデリコ・フェリーニ監督の「道」という映画のあるシーンを思い出した。ジュリエッタ・マシーナ演じるジェルソミーナがリチャード・ベイスハート演じる綱渡り芸人に、私に生きている意味はあるのかな、と問いかける。綱渡り芸人は道に落ちていた石をひょいと拾い上げ、こんな石でもそこにある価値はあるんだよ、と答える。その石をわたされたジェルソミーナは輝く瞳でその石を見つめる。そんなシーンだった、と思う。この映画は必見です。
その石が金曜の夜の人たちにあわさり、一つ一つでは力のない砂粒にも、むしろそこにある価値はあって、それが集まっているのだ、と思う。綱渡り芸人が言うようにすべてのものが価値があるとしたならば、東京からは見えないところにある原子力発電所の価値とは、電気を作ることではないのではないか、ましてや核爆弾の元を作ることなどでもなく、何か別のことではないか、と思いをめぐらすと、言葉にならない答えが近づいているようにも感じるのです。
さて、明日(2012年11月11日(日))の午後三時からの国会周辺での抗議集会はいろんな人が集まってくるだろう。集まろう! そんな人たちの胸の奥で歌われるとうれしい歌がぼくの心に空から降りてきて、それに「砂つぶと石ころ」という題を付けた。こんな詞を初期のボブ・ディランやウッディー・ガスリーを聴きながら読んでみてください。
-砂つぶと石ころ-
みんな砂粒みたいだよ
おじいちゃんとおばあちゃんがいて
パパやママや子どもたち
叫び声はいつのまにか
誰かを呼ぶ声になった
そして、ちりぢりになって
夜ふけの街なみに消える
ぼくは石ころになった
石ころだからころがるよ
でこぼこ道に雲が出て
坂道、夜道、遠回り
だけど、打ちつけないでおくれ*
こなごなになってしまった
真夜中の森の中、消える
ぼくたち、空に放ってもいいよ
きっといくつも星になって
暗いこんな夜空も輝く
誰も迷子にならないよ
みんなは遠くに光っている
どこからだって聞こえるよ
遠い夜空から歌う
みんな、砂つぶみたいさ
石ころみたくころがった
みんな、ひとりぼっちみたいさ
友だちがいるよ
きっと、きみのすぐそばにいるよ
明日の朝になったなら
また、満員電車にゆられている
きみはみどりのタクシーを流し
知らない誰かを乗せている
いつも大丈夫、大丈夫だよ
今度の土曜の朝には
ま新しい歌を歌ってあげる
★11.11反原発1000000人大占拠
http://coalitionagainstnukes.jp/?p=1275
町田の万象房でやぎたこを見ました。やぎたことはやなぎさんと辻井貴子さんのユニットで1920年代や1930年代のウッディー・ガスリーやカーター・ファミリーのフォーク・ミュージックを中心に17世紀の古いアイルランド民謡や19世紀フォースターの名曲、ボブ・ディランらの楽曲までを、ギター、アコーディオン、ダルシマー、フィドル、バンジョー、オート・ハープなどを持ち替えて、男女のコーラスで聞かせます。
すばらしかった。オールド・タイム・グレート・ミュージックって感じ。
オールド・タイム・グレート・ミュージックって何かというと、難しいのだけど、何か、音楽って個性を競うあうようにして発展してきたかもしれない。けれど、その個性ってやつが近頃の音楽をひどく貧しいものにしているような気もするのです。オールド・タイムのミュージックって個性とか越えていて、直接、心に響くような今日このごろなのです。詠み人知らずの名歌がたくさんあって、それは誰の歌でもない、みんなの歌で、誰でもの歌でもあるようなのです。
そう、今日のやぎたこのギグ、アンコール前にやったラストの二曲、Pete Seegerの"We Shall Overcome"とWoody Guthrieの"This Land Is Your Land"に歌の心がびんびんこちらに伝わってきて、朴訥なメッセージの中に静かな怒りを感じてしまって胸が熱くなりました。
共演のにしやん、いつになく場の空気になじんでいい感じ。声をかけてくれてありがとう。
やぎたこのホーム・ページ
http://homepage2.nifty.com/m-yanagi/yagitako/top.htm