えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
ヴィム・ヴェンダーズに新しい映画「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」を見た。
セバスチャン・サルガドとは20世紀を代表する報道カメラマン、マグナム・フォトにも所属した世界の不正を告発するルポルタージュ・カメラマンだった人なのだけど、ルアンダ内戦の取材でのあまりの悲惨な光景に心が病んだようになりカメラを置く。それからの10年後、再びカメラを手にし、新たなプロジェクトを始める。それはこの地球へのオマージュを写真で表明しようというもの。そのモノクロの写真の美しさが劇場の大きなスクリーンにひろがっていた。
そして、ブラジルのジャングルの森を再生する驚異的なエピソードは次の世代の希望としてセバスチャン・サルガドが残していくもの。
ヴィムの共同監督にはジュリア―ノ・リベイロ・サルガドはセバスチャンの息子だということ。そのもっとも映画的な愛の物語は淡く隠れてもいました。
http://salgado-movie.com
酒井俊さんのアルバム「花巻農学校精神歌」に入っている英語の歌"The Long Goodby"がすごくかっこよくて、その歌が劇中に何度も流れるロバート・アルトマン監督の「ロング・グッドバイ」をレンタル・ビデオを見た。
鬼才ロバート・アルトマンだけあって、レイモンド・チャンドラーの著した原作とはまったく違う空気感で、結末では原作にはないプロットも用意されてしまっている。
原作のハードボイルドとはほど遠いエリオット・グールド演じるフィリップ・マーローもこれはこれで飄々としていてかっこいい。なるほど、この飄々としたかっこよさ、それとこの主人公の探偵の秘めたる正義感、ユーモアに隠れて名誉を重んじるその人物像は松田優作主演のテレビドラマ「探偵物語」の影響を与えたという説もある。
それから、1970年代のアメリカ西海岸のヒッピームーブメントの残り香漂う雰囲気、空気が、映画に登場するたくさんの奇妙な人物やその背景となっている景色に充満しています。
小説家の村上龍さんはこの映画を愛してやまず、何度も何度も見たとのこと。
そして、やはり何度も映画で数えきれない編曲をされて流されるテーマ曲が、映像と結びつき、詩を喚起させ、かっこよかった。
内田樹さんの著した「街場の戦争論」を読む。武道の段位を取り、能も舞う内田さんのような日本が好きな人が、今という時の政府の人たちの流れに抗するかのような、こんな本を本屋で見かけると読みたくなってしまうのです。あいかわらずの鋭い筆鋒で戦争をしたがっているらしい、そのくせ多分、自分では決して銃弾飛び交う地には行かないだろう恐怖の安倍氏らをやっつけてくれています。大岡昇平の小説や江藤淳の論文を題材に戦中と戦後を論じた「過去についての想像力」と「ほんとうの日本人」にははっとしました。きっと、ノスタルジーこそラディカルなのです。
杉浦日向子さんの著した、描いた「百物語」を読む。これ三十年ほど前に「小説新潮」に九十九回も連載された掌編の漫画集。怖い、恐ろしいというより、どこか懐かしいような怪しい小さな物語集で、もちろん、この本から流れてくる夏の夜の風に吹かれれば、そう、丑三つ時にでもなれば、江戸への門がぽっかりと開かているのです。
池谷薫監督のドキュメンタリー映画「ルンタ」を見た。圧政下のチベットの今が、チベットの人たちを援助しつづける日本人、中原一博さんを目を通して生々しく語られる。
近頃でのチベットでは中国共産党の圧制と人権無視に抗議し、自らの文化を守ろうとの抗議での焼身があとを絶たない。ここでぼくが「焼身自殺」とは言わず、「焼身」と述べたのは、仏教の慈悲を実践しつづけるチベットの人たちへの敬意による。
国連憲章にもある民族の自決権をチベットに。
かろうじて、ぼくにできることとして、チベットを忘れないこと、思い出すこと、そして、少しは誰かに知らせること。
抑圧する中国の人たちよ、敬虔な仏教徒ではないぼくからは重い怒りを込めてこう忠告しておこう。暴政を行うあなたたちには、早かれ遅かれ、あれがやってくるでしょう。
http://lung-ta.net
近頃でのチベットでは中国共産党の圧制と人権無視に抗議し、自らの文化を守ろうとの抗議での焼身があとを絶たない。ここでぼくが「焼身自殺」とは言わず、「焼身」と述べたのは、仏教の慈悲を実践しつづけるチベットの人たちへの敬意による。
国連憲章にもある民族の自決権をチベットに。
かろうじて、ぼくにできることとして、チベットを忘れないこと、思い出すこと、そして、少しは誰かに知らせること。
抑圧する中国の人たちよ、敬虔な仏教徒ではないぼくからは重い怒りを込めてこう忠告しておこう。暴政を行うあなたたちには、早かれ遅かれ、あれがやってくるでしょう。
http://lung-ta.net
石田千さんの著した「唄めぐり」を読了した。民謡を聴き求めて日本全国各地を旅した紀行文は、その日本語にしかないような文体のリズム感が、読んでいて、きっぷの良い歌が耳に届くかのようだった。まずこの文体に魅かれてしまい、そして、その日本を北から南、東から西へと旅している気分にもなり、日本っていいなぁ、とつくづく思い。各章に数枚、はさまれた口絵写真も楽しく、こんな幸せな風景と空気があったのかと、ぼくの頬はゆるんで、微笑んでしまう。
おしまいの章「音頭の渦 福島[あまちゃん音頭、新生相馬盆唄]」では、音頭が今ここで生まれるそれが綴られているのだけど、そこに出てくるミュージシャン、大友良英さんの言葉は民謡が歌われ踊られる音頭のもっとも深い真実をついているようにも思え、引用させていただきます。
「震災前から大変だったこともあるし、震災後から大変になったこともある。二年前まで、盆踊りって大嫌いだったんですよ。でも、いまこれだけやっていたら、もう嫌いとは言えないです。いったん踊りが始まると、だれも僕らのいる舞台をみてない。主人公は踊ってる人たちなんです。それが最高。また来年もやります」
日本の音頭の夏が今年もやってきますな。