えいちゃん(さかい きよたか)

えいちゃんのぶろぐ

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いとうせいこうさんとジェイ・ルービンさんの共著による『能十番 新しい能の読み方』を読了しました。どういう本かというと、十の能の詞章が掲載されており、それをいとうせいこうさんが現代日本語訳にし、さらにそれをジェイ・ルービンさんが英語に訳しています。いとうせいこうさんは、いわずもかなの小説家であり、日本語ナラティブのラッパーであり、ジェイ・ルービンさんはアメリカ人の夏目漱石、村上春樹、二人の小説家の研究者であり、翻訳もし、能の研究者でもあり、小説も書き、ハーバード大学の名誉教授でもあられる。この本には「高砂」、「忠度」、「経政(経正)」、「井筒」、「羽衣」、「邯鄲」、「善知鳥」、「藤戸」、「海人(海士)」、「山姥」の能がとりあげられていて、どれも名作のはまれのものばかり。

それぞれにいとうせいこうさんとジェイ・ルービンさんの解説があるのもありがたい。例えば、ジェイ・ルービンさんは「高砂」の解説で以下のように記しておられ、日本人のぼくはアメリカ人のこの指摘になるほどと感心するところもあるのです。

「この世の現実性を疑うのが仏教だとすれば、五つの感覚で経験できるこの世の有難さを祝うのが、神道である。神能はいずれも、歌舞劇の歌と舞を駆使して人生の善さを祝っているが、『高砂』は五つの感覚の中でも聴覚を特に賛美する、神道的なポエムである。」

仏教に関していえば、ぼくは、現実性を疑うという哲学的思弁とともに、そこには信ずるという切実な何かでもある、と思う。例えば、日本の寺院には本尊というものがあり、そこには普段には公開されない秘仏というものがあり、さらには最高位の僧侶でさえ見ることのかなわない絶対秘仏というものがあって、ありていにいえば、その絶対秘仏がどのようなもおなのかは明かされない。信といことを顧りみれば、秘仏は朽ち果てていても、木の欠片でも、存在しないものであってもかまわない。あるのかないのか分からぬもの、それが切実な願いと祈りによって信じられてきたことこそ、冥利の神髄ではなかろうか?

閑話休題、『能十番』に戻れば、日本の古語で書かれた詞章、その現代語訳、さらにそれを英語に訳したものを並べると、日本の古語に、ぼくは「言霊」というものをことさら感じてしまう。そこにあるのは、セリフやト書きではなく、掛け言葉なども駆使した、韻律に富んだ、韻文であり、文字通り、詞であり、歌であり、唄であり、神と仏への捧げものであることをありありと感じてしまう。この本は何度も読み返してしまいそうです。

『能十番 新しい能の読み方』刊行記念 いとうせいこう氏インタビュー
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えいちゃん
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男性
職業:
S.E.
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音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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