えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

志田歩さんの著した『THE FOOLS MR.ロックンロール・フリーダム』を面白くて一気読みました。
ぼくは、伊藤耕という希代のシンガーというよりもロックンローラーと同時代に歩め、生きれたことを奇跡のようにも思ってしまいます。1980年代はRolling Stonesが来日しなくても、日本にFOOLSというどびきりいかしていて、いかれてもいた、魂そのもののようなソウルフルなロックンロールバンドがあるからいいとも本気で思っていました。その伊藤耕について、彼の生涯のバンド、FOOLSについてあるゆることが書かれていて、『THE FOOLS MR.ロックンロール・フリーダム』は面白すぎます。
そうか、耕は自由ということについて、自分の人生を賭けて、挑んでいったのではなかろうか? それを歌と音楽にその時、その時に表していった。そして、この世界を去った後も、刑務所の中の死について、真相を求めて、妻の満寿子さんの起こした裁判が、現在、継続中でもあります。死してなお真実を求めている。ぼくは応援しております。


瀬々敬久監督の『ラーゲリより愛を込めて』を観る。年の瀬にドスンと感動し、感涙してしまった。
この映画を見る前に,ぼくの亡き父もシベリアの抑留者であったことなどを思いだす。もしも父がこの映画を観たのなら、どう思っただろうか、などとも考える。この映画の主人公のように極寒の果てに地でたくさんの死も見ただろうが、父は戦後を生きぬいた。これ以上に何があろう?
そして、父にとって戦後の世界は、いつまでも戦後であったのかもしれないとも、なぜか思ってしまう。たぶん、片時も戦争のことは忘れたことはなかったのではなかろうか?
『ラーゲリーより愛を込めて』もそのような映画であると思った。
映画『ラーゲリより愛を込めて』公式サイト




渋谷のサクラホールに『沖縄のウタ拝2022』を見に行きました。
二部構成の一部の後、右隣にいた女子がそのまた向こうの女子に、どうだった、と聞かれ、沖縄のうらみつらみを感じた、と答えていましたが、その声は涙に濡れているようでした。
音楽と映像て綴られる沖縄の近現代を表した叙事詩は、その願いと祈りで未来を照射するよう。
フィナーレはCoccoの踊り。子どものころバレエをしていたというバレリーナそのもののほっそりとした手足の長い彼女の全身を舞わせる踊りの美しさは沖縄そのものでもあるようなのです。
劇場を出て、ぼくは、戦争のない世界に行きたいな、と思っていました。戦争のない沖縄では足りません。戦争のない日本でも足りません。ぼくは戦争のない世界に行きたいのです。
沖縄のウタ拝 2022


中江功監督の『Dr.コトー診療所』を見ました。こういうラストの大団円は好きだなぁ。
映画を見ながら、なんだか、「ヒポクラテスの誓い」ということを思い出してしまっていた。
「・この医術を教えてくれた師を実の親のように敬い、自らの財産を分け与えて、必要ある時には助ける。
・師の子孫を自身の兄弟のように見て、彼らが学ばんとすれば報酬なしにこの術を教える。
・著作や講義その他あらゆる方法で、医術の知識を師や自らの息子、また、医の規則に則って誓約で結ばれている弟子達に分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
・自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。
・依頼されても人を殺す薬を与えない。
・同様に婦人を流産させる道具を与えない。
・生涯を純粋と神聖を貫き、医術を行う。
・どんな家を訪れる時もそこの自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。
・医に関するか否かに関わらず、他人の生活についての秘密を遵守する。
この誓いを守り続ける限り、私は人生と医術とを享受し、全ての人から尊敬されるであろう!
しかし、万が一、この誓いを破る時、私はその反対の運命を賜るだろう」
時代遅れのところもあるかもしれないけれど、ただただ人のためにという本質は変わらない。ぼくはぼくの人生において、人のためにと労をいとわずに、何かをしたことがいくらばかりであっただろうか、などとも映画館を出てから、考えてこんでしまう。誰かのためにということは本当に素敵なことです。
映画の中の南の方の小さな島に、その素敵な人、大丈夫ですよ、といってその手をさしのべ治療に全霊をかけるその人、ドクター・コトーは確かにいたようなのです。
映画「Dr.コトー診療所」公式サイト


若竹千佐子さんの著した『おらおらでひとりいぐも』を読んだ。
この小説を読みながら、これはすぐれて現代小説なのではないかと思いはじめていた。この『おらおらひとりいぐも』には、「ポリフォニー(多声・和声)」があり、ジェームズ・ジョイスの「意識の流れ」があり、ガブリエル・ガルシア・マルケスの「魔術的リアリズム」があり、確固たる「ナラティブ(語り口)」を持っている。
若竹千佐子さんは、岩手県の遠野出身で、東京に若くして出てきて、夫の死別の後、小説を書く教室に通いつづけながら、63歳でデビューした『おらおらひとりいぐも』で芥川賞を取ったという。その標準語と東北弁のいりまじった文体は圧倒的で素晴らしく面白い。東北の出身でこの小説に感涙したという、ぼくに紹介してくれた友だちに感謝します。ありがとう。
読後、ぼくはなぜか、映画『フェリーニのアマルコルド』や深沢七郎の小説を思い出すようであったのはどうしてだろう?
