えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

こんな夢を見た。会社の最後の出社日にぼくは会社の集会用の小さな講堂にいる。そこでは、ぼくのしてきた業務が、引き継ぎのためスクリーンに流されてある。会社関係以外の人もなにやら来ているt。みんな、ぼくの高校時代の体操着であったえんじ色のジャージを来ている。そこにぼく宛の荷物が届くのだか、総務の人からこのような個人のものを会社宛に送ってもらっては困るというお叱りを受け、渡せませんと言われる。さて、困った、確かにこれはぼく宛の荷物なのだ。ふと書かれていた送り主の人のことを思い出し、彼がぼくの会社の住所など知るはずもないことを思いつき、これは夢なんだと了解する。
そこで目が覚めた。明晰夢だろうか? たまにこんな風に目が覚めます。体操着のえんじ色は日本古来から伝わる吉祥に違いない。
ゆめゆめうたがふことなかれ
そこで目が覚めた。明晰夢だろうか? たまにこんな風に目が覚めます。体操着のえんじ色は日本古来から伝わる吉祥に違いない。
ゆめゆめうたがふことなかれ




「博物館に初もうで」ということで東京国立博物館に行きました。干支の兎にちなんだものも陳列してありました。日本画家の中では一番好きだと坂本龍一さんがおっしゃておられました長谷川等伯の「松林図屛風」が素晴らしい。禅の感覚、思考を極限まで進め、切り落とし、切り落としして、松林と遠くの富士が残ったかのような図に風情に感嘆の溜息。あー、でも、雪舟の絵は展示されていなかった。受付のの人に雪舟の絵はどこですかと尋ねると、今は展示されておりませんとの答えでありました。また、来なくてはなるまいぞ。
「150年後の国宝展―ワタシの宝物、ミライの宝物」という展示には少しの衝撃がありました。ゴジラやセブンイレブンの赤電話は懐かしくも楽しいのだけれども、やはり、ぼくは150年後は展示する今のものは何もないようにも思え、博物館という施設、仕掛けが極めて20世紀的なものだとも思えてしまうのでした。
博物館は楽しい。


今年はにぎやかで楽しい年がいいなと思い、「鎌倉江の島七福神」を巡りました。
一日目、江島神社(弁財天)、長谷寺(大黒天)御霊神社(福禄寿)、本覚寺(夷神)、妙隆寺(寿老人)、宝戒寺(毘沙門天)、鶴岡八幡宮旗上弁財天社(弁財天)と巡ったところで時間切れとなりました。
朝と夕の霊験あらたかな富士の霊峰が江ノ島から遠く見えたり、鶴岡八幡宮は俗界そのものでもあるようで、その向こうに鎌倉をお守りする武運長久な神のお社とその脇の池の水の中に佇む弁天様、ありがたき幸せをもたらす古くからのさまざまな神社・仏閣をめぐりました。ああ、それさえも見ている、すべてを見ている長谷寺の観音様の慈悲の目も感じました。
二日目、朝の爽やかな時に、浄智寺(布袋尊)に参りました。
すがすがしい。
そして、できあがった「鎌倉江の島七福神」の御朱印の色紙が楽しい。
ゆめゆめうたがふことなかれ
一日目、江島神社(弁財天)、長谷寺(大黒天)御霊神社(福禄寿)、本覚寺(夷神)、妙隆寺(寿老人)、宝戒寺(毘沙門天)、鶴岡八幡宮旗上弁財天社(弁財天)と巡ったところで時間切れとなりました。
朝と夕の霊験あらたかな富士の霊峰が江ノ島から遠く見えたり、鶴岡八幡宮は俗界そのものでもあるようで、その向こうに鎌倉をお守りする武運長久な神のお社とその脇の池の水の中に佇む弁天様、ありがたき幸せをもたらす古くからのさまざまな神社・仏閣をめぐりました。ああ、それさえも見ている、すべてを見ている長谷寺の観音様の慈悲の目も感じました。
二日目、朝の爽やかな時に、浄智寺(布袋尊)に参りました。
すがすがしい。
そして、できあがった「鎌倉江の島七福神」の御朱印の色紙が楽しい。
ゆめゆめうたがふことなかれ


山梨県の早川町に向けてドライブしながら旅をしました。
ところどころで富士山の写真を撮ります。富士さんは偉大だ。この俗世に忽然と現れたかのような霊気もあらたかな巨大な美しい威容にいつも圧倒されてしまいます。
ところで、早川町などのそこらで、大きな土塁をぼくは見た。リニアモーターカーの新幹線の工事なのであろうが、それは早川町を通り過ぎるだけ。通り過ぎれよ。今、たくさんのローカル線は廃線寸前だという。地球は一部の人間だけのためではないんだよ。
けれど、ぼくの泊まった早川町のヘルシー美里は静かでもありました。食堂で給仕をしている人と泊り客の人が話をしていて、なんでも、この宿のもとももとの廃校となった早川中学校の卒業生だったそうで、ロビーに掲げられた卒業写真にものっているという。この町に足りないのは、超特急で通り過ぎる新しい新幹線ではなく、子どもの姿や遊ぶ子どもの笑い声ではなかろうか。
近くに野鳥の楽園でもある南アルプス邑野鳥公園もあるのです。ここから数キロ北に行けば川ではたくさんのヤマメやイワナが泳いでいて、本当に大切なことはなんだろう? 夕方にクマダカが校庭の上を飛んでいるらしいのをぼくは見た。旅人のわがままかもしれなことを承知で、ここは鳥や魚が安心して暮らせるところでであってほしい。
ところどころで富士山の写真を撮ります。富士さんは偉大だ。この俗世に忽然と現れたかのような霊気もあらたかな巨大な美しい威容にいつも圧倒されてしまいます。
ところで、早川町などのそこらで、大きな土塁をぼくは見た。リニアモーターカーの新幹線の工事なのであろうが、それは早川町を通り過ぎるだけ。通り過ぎれよ。今、たくさんのローカル線は廃線寸前だという。地球は一部の人間だけのためではないんだよ。
けれど、ぼくの泊まった早川町のヘルシー美里は静かでもありました。食堂で給仕をしている人と泊り客の人が話をしていて、なんでも、この宿のもとももとの廃校となった早川中学校の卒業生だったそうで、ロビーに掲げられた卒業写真にものっているという。この町に足りないのは、超特急で通り過ぎる新しい新幹線ではなく、子どもの姿や遊ぶ子どもの笑い声ではなかろうか。
近くに野鳥の楽園でもある南アルプス邑野鳥公園もあるのです。ここから数キロ北に行けば川ではたくさんのヤマメやイワナが泳いでいて、本当に大切なことはなんだろう? 夕方にクマダカが校庭の上を飛んでいるらしいのをぼくは見た。旅人のわがままかもしれなことを承知で、ここは鳥や魚が安心して暮らせるところでであってほしい。


旅先の宿で藤原新也さんの著した『日々の一滴』を読みました。なんか、旅先でテレビを見ることってなんくなりましたね。昔は、旅先で見たテレビ番組は、それぞれの地方のローカル色が何かしらあって面白くも感じこともあったのですが、今はどこも同じ。それと同時に、地方から人はいなくなり、町や村はくたびれていった。この『日々の一滴』はそんな時代の写真付きの日記といった佇まい。
今は戦争準備を進めているような最悪へ向かう時でもあるようにぼくには思えてしまい、この本は、記録と記憶として今を残すべく、藤原さんは上梓したのではあるまいか? この『日々の一滴』は現代にあらわれた永井荷風の『断腸亭日乗』のようでもあるのです。
