えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
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石牟礼道子さんの最新著作は、石牟礼道子さんからの東日本大震災を挟む足かけ二年にわたる語り下ろしで、そのような「花の億土へ」を読んだ。重く深いメッセージが語られているのだけど、まさしく、今という時代に向けたメッセージで、人間の作り出したありとあらゆる邪悪なものによって、人類どころではなく、生類そのものも滅びの道を歩いているのではないか、と石牟礼さんは危惧し、メッセージを重ねている、その言葉の美しさにもため息が出てしまう。道子さんは、すべての生きものはある希望のようなものを抱いて生まれてくる、というのだけど、その希望というものは、何だろうと、想像の翼をぼくははばたかせる。石牟礼道子さんの言葉は詩であり、詞であり、歌であり、祈りのようなものでもあって、本当に美しい。ぼくは、石牟礼道子さんこそが、三人目の日本人のノーベル文学賞にふさわしい、と思うのだが、どうでしょう。
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町田国際版画美術館に「パブロ・ ピカソ ―版画の線とフォルム―」展を見に行く。版画作品によってピカソの人生を振り返るというもの。ゆっくり歩いて見ていると不思議な「ミノタウロキア」の前で足が止まり、しばし見とれる。それより印象的だったのが「鳩」。この無垢さは何だろう? ピカソで有名なのはスペイン内線での空爆を描いた「ゲルニカ」が有名すぎるのだけど、この「鳩」はもう一つの「ゲルニカ」ではあるまいか。国際連合本部に飾られてれている「ゲルニカ」のレプリカは重要な議決の際には、展示から取り外されるという。どういうことなのだろう? 取り外されたなら、ぼくは、このピカソの魂そのもののような「鳩」を思い浮かべればいい。このピカソの「鳩」はぜひ実物の版画をご覧ください。
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レンタルDVDでトリーシャ・ジフ監督の「メキシカン・スーツケース」を見た。ロバート・キャパ、ゲルダ・タロー、デビッド・シーモアの残したスペイン内線のネガ・フィルムがメキシコで見つかったことを糸口に、タブーとなってしまって、語られなくなってしまった戦争の真実を解き明かすというような内容だった。
こういう話が世界にはたくさんあるのか、と改めて思う。1940年代のメキシコってどこか輝いている。スペイン内戦で共和国を支援した国が二つあって、ひとつが今のロシア、当時のソビエト連邦で、もうひとつがメキシコであった。その他の国は見て見ぬふりといったところか。
共和国派、人民戦線政府はイタリアとドイツのファシズム政権に支援を受けた後の独裁者フランコの率いる軍に負けてしまうのだが、はじめて民間人が標的にされた戦争としても記録され、ピカソの「ゲルニカ」はその空襲への抗議の意志をこめた芸術作品。人民戦線側の義勇兵としてアーネスト・ヘミングウェイやアンドレ・マルローなども戦った。ヘミングウェアの「誰がために鐘は鳴る」はまさしくスペイン内戦を描いた名作で後にゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンの主演で映画にもなった。そう、スペイン内戦で負け、死んでいった兵士や民家人とちりじりになってメキシコに亡命した人々についてこの映画「メキシカン・スーツケース」では語られている。
あぁメキシコよ、亡命者レオン・トロッキーの終焉の地で、ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロの砂漠の絵画、勇者である骸骨の国。無数の亡命者のスーツケースがおり重なっている。
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日本でボブ・ディランを歌わせたら、東京ボブの右の出るものはなく、日本でボブ・ディランを語らせたら、鈴木カツの右に出るものはあるまい。東京ボブとは、ボブ・ディランの楽曲を歌う、永遠のにせものであり、第二のボブ・ディランとも呼ばれるが、その東京ボブとも懇意であり、同じぐらいにボブ・ディランを愛してやまない鈴木カツさんの新著である「ボブ・ディランのアメリカ 愛聴盤101枚の世界(Bob Dylan's America 101 of the young Bob Dylan's favirite records)」を読んだ。
この本は、ボブ・ディランの楽曲やインタビュー、自伝本、ボブ・ディラン自身が選曲とDJをつとめる衛星ラジオ放送「テーマ・タイム・ラジオ・アワー」などから、ボブ・ディランが愛聴しているだろうルーツ・アメリカ音楽のアナログ・レコード、101枚を丁寧に解説したもの。
その守備範囲はフォークはもとより、ブルース、ポップ・ミュージック、ロック、ロックン・ロール、ジャズと幅広くもあるのはディラン自身の衛星放送番組の内容から想像できたのだけれども、やはり、驚いてしまう。ボブもカツも、アメリカの音楽を聴く方の開拓者でもあったのだ。心地よいアメリカン・ミュージックの泥沼にはまりこんでいくようだよ。
表紙が菅野一成さんの絵でこれも素敵です。
http://www.clinck.co.jp/merurido/dtl.php?ky=MMP003
この本は、ボブ・ディランの楽曲やインタビュー、自伝本、ボブ・ディラン自身が選曲とDJをつとめる衛星ラジオ放送「テーマ・タイム・ラジオ・アワー」などから、ボブ・ディランが愛聴しているだろうルーツ・アメリカ音楽のアナログ・レコード、101枚を丁寧に解説したもの。
その守備範囲はフォークはもとより、ブルース、ポップ・ミュージック、ロック、ロックン・ロール、ジャズと幅広くもあるのはディラン自身の衛星放送番組の内容から想像できたのだけれども、やはり、驚いてしまう。ボブもカツも、アメリカの音楽を聴く方の開拓者でもあったのだ。心地よいアメリカン・ミュージックの泥沼にはまりこんでいくようだよ。
表紙が菅野一成さんの絵でこれも素敵です。
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会社帰りに渋谷のイメージ・フォーラムでジョシュア・オッペンハイマー監督の「アクト・オブ・キリング」というドキュメンタリー映画を見たのだけど、あまりに重い内容に暗い気分になった。万人受けする映画ではないと思うのだけど、とても優れて、人間とか社会の悪とは何か、という問いに対して問題提起をしている、そのような映画でもあり、圧倒された。
隣人が隣人を殺戮するということがどういうことなのか、1965年のインドネシアでのクーデタの際に、そのような殺戮の加害者であり、法律によって何の罰せられることもなく月日を過ごしてきた70歳を過ぎたその男に、その殺戮を演じてもらい、映像化した映画であった。目をそむけたくなるようなシーンの連続に憂鬱な気分となり小さな劇場を出ざるえない。この前、見た「それでも夜は明ける」もそうなように、最近のアメリカ映画には、このような過去の直視できないような歴史を真摯に取り上げる、そんな映画が少なからず出てきつつあって、ぼくは、むしろ、世界の潮目の変わり目がやって来ているのかもしれないと、のぞみをつなぐ。
さて、隣人が隣人を殺戮するといえば、最近ではアフリカのルアンダ、ヨーロッパのボスニア・ヘルツェゴビナなどが思い出されるけれど、第二次世界大戦後のアジアも決して平和ではなかった。中華人民共和国で1966年から1977年まで続いたプロレタリア文化大革命では隣人が隣人によって40万人から1000万人、殺されたといわれる。その前年の1965年にインドネシアではプロレタリア文化大革命と逆と名分の「共産主義者狩り」として、100万人から250万人が殺されているらしい。1975年から1979年までの間にカンボジアでのクメール・ルージュ(カンボジア共産党)によって120万人から170万人が殺された。この映画はそんなことをぼくに思い出させもし、もしもその時、ぼくがインドネシアや中華人民共和国やカンボジアにいたとしたら、まっさきに殺されるようなそんな人間であるような気がして、恐怖すら感じた。
あぁ、この映画がとらえた今のジャカルタのやくざは、異国からやってきて小さな商売によって、かろうじてかの地に根をはる華僑から、愛国をとなえつつ暴力を背にした恐喝で金品を得ていた、その熱帯モンスーンのうすぎたないやくざの灰色の暗さよ。
この世界に愛を、平和を。タイもウクライナも血を流さないでください。隣人同士、手をつないでください。
http://www.aok-movie.com
隣人が隣人を殺戮するということがどういうことなのか、1965年のインドネシアでのクーデタの際に、そのような殺戮の加害者であり、法律によって何の罰せられることもなく月日を過ごしてきた70歳を過ぎたその男に、その殺戮を演じてもらい、映像化した映画であった。目をそむけたくなるようなシーンの連続に憂鬱な気分となり小さな劇場を出ざるえない。この前、見た「それでも夜は明ける」もそうなように、最近のアメリカ映画には、このような過去の直視できないような歴史を真摯に取り上げる、そんな映画が少なからず出てきつつあって、ぼくは、むしろ、世界の潮目の変わり目がやって来ているのかもしれないと、のぞみをつなぐ。
さて、隣人が隣人を殺戮するといえば、最近ではアフリカのルアンダ、ヨーロッパのボスニア・ヘルツェゴビナなどが思い出されるけれど、第二次世界大戦後のアジアも決して平和ではなかった。中華人民共和国で1966年から1977年まで続いたプロレタリア文化大革命では隣人が隣人によって40万人から1000万人、殺されたといわれる。その前年の1965年にインドネシアではプロレタリア文化大革命と逆と名分の「共産主義者狩り」として、100万人から250万人が殺されているらしい。1975年から1979年までの間にカンボジアでのクメール・ルージュ(カンボジア共産党)によって120万人から170万人が殺された。この映画はそんなことをぼくに思い出させもし、もしもその時、ぼくがインドネシアや中華人民共和国やカンボジアにいたとしたら、まっさきに殺されるようなそんな人間であるような気がして、恐怖すら感じた。
あぁ、この映画がとらえた今のジャカルタのやくざは、異国からやってきて小さな商売によって、かろうじてかの地に根をはる華僑から、愛国をとなえつつ暴力を背にした恐喝で金品を得ていた、その熱帯モンスーンのうすぎたないやくざの灰色の暗さよ。
この世界に愛を、平和を。タイもウクライナも血を流さないでください。隣人同士、手をつないでください。
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スポンサーの付けない自主メディア「IWJ(インデペンデント・ウェブ・ジャーナル)」を展開するジャーナリスト、岩上安見さんが2011年3月11日に福島にいた人にインタビューしたした、そのインタビュー集「百人百話 第2集」を読んだ。「第1集」につづき、充実した内容だった。
一般般的なもしくは標準的な福島県人なんてあるのだろうか、と思い、この本に登場する人たちのそれぞれ一人ひとりのそれぞれであることがとても大切なことであるような気がした。その多様性の中にも、矛盾したことを言うようだが、福島気質がすけて見えるようだ。そして、内から見た福島、それが書かれているのではなく、語られている。書かれずに、語られる口吻の歴史こそ、ぼくたちにとって真実ではなかろうか。
避難した人、避難せずに福島にとどまっている人、つとめて忘れようとしている人、忘れまいとする人、そして、何か震災について発信して行動している人、行動していない人、福島でこの災難に見舞われなかったぼくにとっては、それらすべての人が敬意を表すべき人でもある。
福島から新しい日本と日本人が生まれつつあるような気がしつつ本を閉じた。
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昨日の夜、エミール・クストリッツァ監督の「アンダーグラウンド」をレンタルDVDで見た。ユーゴスラビアという国の激動の現代史を奇想天外な着想のもとに駆け抜けていくような、シュール・レアリスティックな映画だった。ユーゴスラビアって今では7つの国に分裂していて、なくなってしまったんだなぁ、と思う。そして、ここいらへんはラテンでもあるのね。
この映画のラスト・シーンは愚者が与える不思議な教訓とか暗示を感じさせ、何か感動的。その教訓とか暗示とは何かと聞かれても、一言では表せないほど、複雑で鬼気なものでもあるようだ。そして、一つの国が崩壊過程にある中で撮られた映画でもあり、その国への惜別の深い感情と危機意識がないまぜになって、圧巻です。
あっ、そうだ、シュール・レアリズムというより、この映画は、マジック・レアリズムといったほうがぴんとくる。このわけのわからなさは、ガブリエル・ガルシア=マルケスの小説、寺山修司の演劇、そしてあのフェデリコ・フェリーニの「甘い生活」以降の映画が好きな方にはお勧めです。
http://www.eiganokuni.com/ug/
この映画のラスト・シーンは愚者が与える不思議な教訓とか暗示を感じさせ、何か感動的。その教訓とか暗示とは何かと聞かれても、一言では表せないほど、複雑で鬼気なものでもあるようだ。そして、一つの国が崩壊過程にある中で撮られた映画でもあり、その国への惜別の深い感情と危機意識がないまぜになって、圧巻です。
あっ、そうだ、シュール・レアリズムというより、この映画は、マジック・レアリズムといったほうがぴんとくる。このわけのわからなさは、ガブリエル・ガルシア=マルケスの小説、寺山修司の演劇、そしてあのフェデリコ・フェリーニの「甘い生活」以降の映画が好きな方にはお勧めです。
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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