えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
河合隼雄さんの著しわしたものを河合隼雄さんの子息の河合俊雄さんが編纂した岩波現代文庫の「<心理療法>コレクション」の中の一冊「ユング心理学と仏教」を読む。「I ユングか仏教か」の章でなぜ、自分の心理療法の患者への治療を進めていくうちに、仏教の考え方へ近接すらしていったのか、その発端から始まり、「II 牧牛図と錬金術」では十牛図の物語に興味深い紐解きもなされ、その後、西洋から東洋、東洋から西洋へとその文化を照射しつつ、さらなる東洋の思想の深みに錘をおろすかのようなのだ。
「まえがき」でデイヴィッド・H・ローゼンさんが河合さんへ捧げている芭蕉の句です。
「此のあたり目に見ゆるものは皆涼し」
「IV 心理療法における個人的・非個人的関係」ではこう述べられる。
「人間関係を個人的な水準のみではなく、非個人的な水準にまでひろげて持つようになると、その底に流れている感情は、感情とさえ呼べないものではありますが、「かなしみ」というのが適切と感じられます」
この章はこう結ばれる。
「クライアントにそのような楽しい世界のよさを教えたりするよりよりも、心理療法を行うとき、私はかなしみの中心に自分を置こうと心がけている、と言えます。その場にずっといると、楽しい世界が自然にひらかれていきます」
河合さんは学者や文筆家であるよりもまず、悩み苦しむものを治療しようとする医師であったような気もするのです。そして、河合隼雄さんの「エピローグ」でのしめくくりの言葉としてあげられた作者不詳の西洋人の詩「1000の風」。
「『1000の風』
訳 南風椎
私の墓石の前に立って
涙を流さないでください。
私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。
私は1000の風になって
吹きぬけています。
私はダイアモンドのように
雪の上で輝いています。
私は陽の光になって
熟した穀物にふりそそいでいます。
秋には
やさしい雨になります。
朝の静けさのなかで
あなたが目ざめるとき
私はすばやい流れとなって
駆けあがり
鳥たちを
空でくるくる舞わせています。
夜は星になり、
私は、そっと光っています。
どうか、その墓石の前で
泣かないでください。
私はそこにはいません。
私は死んでないのです。」
「まえがき」でデイヴィッド・H・ローゼンさんが河合さんへ捧げている芭蕉の句です。
「此のあたり目に見ゆるものは皆涼し」
「IV 心理療法における個人的・非個人的関係」ではこう述べられる。
「人間関係を個人的な水準のみではなく、非個人的な水準にまでひろげて持つようになると、その底に流れている感情は、感情とさえ呼べないものではありますが、「かなしみ」というのが適切と感じられます」
この章はこう結ばれる。
「クライアントにそのような楽しい世界のよさを教えたりするよりよりも、心理療法を行うとき、私はかなしみの中心に自分を置こうと心がけている、と言えます。その場にずっといると、楽しい世界が自然にひらかれていきます」
河合さんは学者や文筆家であるよりもまず、悩み苦しむものを治療しようとする医師であったような気もするのです。そして、河合隼雄さんの「エピローグ」でのしめくくりの言葉としてあげられた作者不詳の西洋人の詩「1000の風」。
「『1000の風』
訳 南風椎
私の墓石の前に立って
涙を流さないでください。
私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。
私は1000の風になって
吹きぬけています。
私はダイアモンドのように
雪の上で輝いています。
私は陽の光になって
熟した穀物にふりそそいでいます。
秋には
やさしい雨になります。
朝の静けさのなかで
あなたが目ざめるとき
私はすばやい流れとなって
駆けあがり
鳥たちを
空でくるくる舞わせています。
夜は星になり、
私は、そっと光っています。
どうか、その墓石の前で
泣かないでください。
私はそこにはいません。
私は死んでないのです。」
ありがとう、ヒロコちゃん。ありがとう、高雄文さん。ありがとう、村上店長。ありがとう、あたたかいお客さま。
小田急相模原エルトピーとトでのライブのようすです。楽しかった。
小田急相模原エルトピーとトでのライブのようすです。楽しかった。
「大江健三郎自選短篇」を読了した。デビュー作「奇妙な仕事」から1992年の「マルゴ公妃のかくしつきスカート」までさまざまな短篇を大江さん自身が新たに加筆修正をほどこしたもの。
「I 初期短篇」、「II 中期短篇」、「III 後期短篇」に分かれていて、時代につれて、文体が変化してきたことも判る。その中で、ぼくは異質なものを無理やり接合したような文体でもある「II 中期短篇」が一番おもしろかった。その「II 中期短篇」なのだけど、連載の抜粋がほとんで、読んでいくと、そのすべてを読んでしまいたくなる。「I 初期短篇」は戦後文学の時代潮流を受けとめ、椎名鱗三や梅崎春生の小説とどこか近しいものもあるように感じた。「III 後期短篇」の「火をめぐらす鳥」は枯れた澄み切ったふうで、小説家の年齢をかさねて変わっていき、それに合わせて小説の変わっていくのかと思った。
どの時代の作品にも、何か小さな啓明のようなものがあり、感動しました。とくにラストに収められた「火をめぐらす鳥」は美しくて深く、ずしんと感動しました。
「I 初期短篇」、「II 中期短篇」、「III 後期短篇」に分かれていて、時代につれて、文体が変化してきたことも判る。その中で、ぼくは異質なものを無理やり接合したような文体でもある「II 中期短篇」が一番おもしろかった。その「II 中期短篇」なのだけど、連載の抜粋がほとんで、読んでいくと、そのすべてを読んでしまいたくなる。「I 初期短篇」は戦後文学の時代潮流を受けとめ、椎名鱗三や梅崎春生の小説とどこか近しいものもあるように感じた。「III 後期短篇」の「火をめぐらす鳥」は枯れた澄み切ったふうで、小説家の年齢をかさねて変わっていき、それに合わせて小説の変わっていくのかと思った。
どの時代の作品にも、何か小さな啓明のようなものがあり、感動しました。とくにラストに収められた「火をめぐらす鳥」は美しくて深く、ずしんと感動しました。
この前、万象房で出会った森山邦男和尚のお寺、簗田寺に、友だちの誘いもあり、座禅をしに行きました。
むずかしいことはさしおいて、はじめての座禅でのざっくばらんな感想です。板の棒で肩を叩かれる警策ですが、痛いような、痛くないような、やっぱ痛いのです。けれど、和尚は寸止めしているのでしょう。あの板で全力で振り下ろせば、肩の骨が肉がひどく傷つくか、板が折れるか、そのどれもでしょう。その打たれた時は全身と心のすべてがビクンとなります。そのビクンの一瞬が大事なのかなと思いました。座禅している時、ぼくの意識にありとあらゆることが去来します。そのありとあらゆることは、もしかして、婦女子のことばかりかと思いましたが、それもありましたが、そんなことばかりではなかったのです。例えば、どこで、警策を求めればいいのかな、鳥の声が聞こえてのどかだな、いつこの座禅は終わりになるんだろ、今日はいい天気だな、隣の人のおなかの鳴る音が聞こえたぞ、もういろんな小さなことが次から次へと泡粒のように浮かんでは消えていきます。ぼくは悟りを得ようとも思わず、必死ににもなっていないので、自分の心をなすがままにしておきましたが、足がしびれて痛くなるのは、けっこうまいりました。それから、嫌いな人のことが思い浮かばなかったのは不思議によかったです。御仏の御功徳でしょうか。感謝、感謝で、ありがたいです。
座禅の後、トイレ掃除をしました。この時の方が頭がからっぽになりました。おっ、雑巾でみがくときれいになるぞ、もっとみがいてやれとか。
それから、歩き方ひとつにしても作法があり、ご説明をいただいてもなかなか動作として身についたものとして動けません。そんな自分がいかにもお落ち着きのないお猿のような人にも思えました。
僭越ながらも、ぼくは、座禅のようなことが、精神を落ちつけるためのプラクティスとかテクニックのようにとらえるような考え方には疑問があります。生きとし生きるもの救うために、座るというようなことがなくては、とも思うのです。ほんのちょっぴりだけ、そんなことにも思いをめぐらし座りました。
それから、座禅の美しい女の人はほんとうにすべて美しいのではないか、などと想像してしまいました。すると、和尚の分別をいましめる「喝」の一言とともにぼくの肩に警策が打たれそうでありますな。
むずかしいことはさしおいて、はじめての座禅でのざっくばらんな感想です。板の棒で肩を叩かれる警策ですが、痛いような、痛くないような、やっぱ痛いのです。けれど、和尚は寸止めしているのでしょう。あの板で全力で振り下ろせば、肩の骨が肉がひどく傷つくか、板が折れるか、そのどれもでしょう。その打たれた時は全身と心のすべてがビクンとなります。そのビクンの一瞬が大事なのかなと思いました。座禅している時、ぼくの意識にありとあらゆることが去来します。そのありとあらゆることは、もしかして、婦女子のことばかりかと思いましたが、それもありましたが、そんなことばかりではなかったのです。例えば、どこで、警策を求めればいいのかな、鳥の声が聞こえてのどかだな、いつこの座禅は終わりになるんだろ、今日はいい天気だな、隣の人のおなかの鳴る音が聞こえたぞ、もういろんな小さなことが次から次へと泡粒のように浮かんでは消えていきます。ぼくは悟りを得ようとも思わず、必死ににもなっていないので、自分の心をなすがままにしておきましたが、足がしびれて痛くなるのは、けっこうまいりました。それから、嫌いな人のことが思い浮かばなかったのは不思議によかったです。御仏の御功徳でしょうか。感謝、感謝で、ありがたいです。
座禅の後、トイレ掃除をしました。この時の方が頭がからっぽになりました。おっ、雑巾でみがくときれいになるぞ、もっとみがいてやれとか。
それから、歩き方ひとつにしても作法があり、ご説明をいただいてもなかなか動作として身についたものとして動けません。そんな自分がいかにもお落ち着きのないお猿のような人にも思えました。
僭越ながらも、ぼくは、座禅のようなことが、精神を落ちつけるためのプラクティスとかテクニックのようにとらえるような考え方には疑問があります。生きとし生きるもの救うために、座るというようなことがなくては、とも思うのです。ほんのちょっぴりだけ、そんなことにも思いをめぐらし座りました。
それから、座禅の美しい女の人はほんとうにすべて美しいのではないか、などと想像してしまいました。すると、和尚の分別をいましめる「喝」の一言とともにぼくの肩に警策が打たれそうでありますな。