えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
中江功監督の『Dr.コトー診療所』を見ました。こういうラストの大団円は好きだなぁ。
映画を見ながら、なんだか、「ヒポクラテスの誓い」ということを思い出してしまっていた。
「・この医術を教えてくれた師を実の親のように敬い、自らの財産を分け与えて、必要ある時には助ける。
・師の子孫を自身の兄弟のように見て、彼らが学ばんとすれば報酬なしにこの術を教える。
・著作や講義その他あらゆる方法で、医術の知識を師や自らの息子、また、医の規則に則って誓約で結ばれている弟子達に分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
・自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。
・依頼されても人を殺す薬を与えない。
・同様に婦人を流産させる道具を与えない。
・生涯を純粋と神聖を貫き、医術を行う。
・どんな家を訪れる時もそこの自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。
・医に関するか否かに関わらず、他人の生活についての秘密を遵守する。
この誓いを守り続ける限り、私は人生と医術とを享受し、全ての人から尊敬されるであろう!
しかし、万が一、この誓いを破る時、私はその反対の運命を賜るだろう」
時代遅れのところもあるかもしれないけれど、ただただ人のためにという本質は変わらない。ぼくはぼくの人生において、人のためにと労をいとわずに、何かをしたことがいくらばかりであっただろうか、などとも映画館を出てから、考えてこんでしまう。誰かのためにということは本当に素敵なことです。
映画の中の南の方の小さな島に、その素敵な人、大丈夫ですよ、といってその手をさしのべ治療に全霊をかけるその人、ドクター・コトーは確かにいたようなのです。
映画「Dr.コトー診療所」公式サイト
若竹千佐子さんの著した『おらおらでひとりいぐも』を読んだ。
この小説を読みながら、これはすぐれて現代小説なのではないかと思いはじめていた。この『おらおらひとりいぐも』には、「ポリフォニー(多声・和声)」があり、ジェームズ・ジョイスの「意識の流れ」があり、ガブリエル・ガルシア・マルケスの「魔術的リアリズム」があり、確固たる「ナラティブ(語り口)」を持っている。
若竹千佐子さんは、岩手県の遠野出身で、東京に若くして出てきて、夫の死別の後、小説を書く教室に通いつづけながら、63歳でデビューした『おらおらひとりいぐも』で芥川賞を取ったという。その標準語と東北弁のいりまじった文体は圧倒的で素晴らしく面白い。東北の出身でこの小説に感涙したという、ぼくに紹介してくれた友だちに感謝します。ありがとう。
読後、ぼくはなぜか、映画『フェリーニのアマルコルド』や深沢七郎の小説を思い出すようであったのはどうしてだろう?
石牟礼道子さんと藤原新也さんの対談集である『なみだふるはな』を読む。石牟礼道子さんの水俣を語る故郷を愛おしむ言葉は美しい。そして、藤原新也さんのこんな言葉にぼくは強くゆさぶられる思いがした。引用します。
「そのメカニズムは不明ですが、こうしてみると原発三十基分の放射能はすでに世界を覆っているのではないかとも考えられる。そんな中で申しわけないと思うのは、福島の場合もそうですが、ほかの罪のない動植物も巻き添えにしていることです。実は現地で一番ショックを受けたのは飯館村の線量の高い地区の地面で番のアリが狂ったようにエンドレス状態で輪を描いてグルグル回転していたあの光景です。ああやって回りながら死ぬのでしょう。あの狂ったアリは、水俣病にかかって鼻の先でくるくる踊って海に飛び込む「踊り猫」そのものなんです。その光景を見て自分に罪を感じました。
そのような大罪を犯した僕たちは滅びてもいい。というよりも滅びるべきだと僕は思っております。つまりこの地球上の0.01パーセントに過ぎない人間が99.99パーセントの生物の命を奪おうとしている。そういう生物は滅びるべきです」
ぼくにとってこの言葉は、なんとも重い問いのように思えに考え込んでしまう。そして、やはりぼくは命への捧げもののような石牟礼道子さんの美しい詩や詞でもある言葉に戻ってゆく。いや、戻ってゆこう。
世田谷美術館に『藤原新也・祈り』展を見に行った。
展覧会のはじまりのところの大きな蓮の写真に感激の鳥肌がたつ。ぼくは40年来、藤原さんの写真や文、表現を追い続けけてきたのです。
この前、NHKの「日曜美術館」で藤原新也の特集を放送していて、藤原さんは「目の性善説」というようなことをおっしゃっておられた。目は本来、美しいものを求めており、目はそれを見たいと思っている、というような内容だった。日本の普通の景色から香港や渋谷を舞台にしたニュース的なもの、インドやトルコ、中国、アメリカの放浪の旅、バリ島や沖ノ島まで、すべてが何かしら美しい。そして、ラストのところの展示での言葉は痛切にも、今、日本に撮りたいという景色がなくなってきているということだった。
家に帰り、買ったままなぜかほったらかしにしていた藤原さんの最新の写真集であり、この『藤原新也・祈り』展の図録である『祈り』を見る。そして、読む。ここでもまた圧倒された。その写真集を見ながら、その中の「旅」という文を読みながら、ぼくは、その昔、寺山修司の本か何かで知った、全世界の反抗の発火点となった1968年の五月革命のフランスのパリのナンテール大学にあったという落書きの言葉を思い出していた。
「敷石の下は砂浜だ」
まったくその通り。世界は騒然として再び敷石ははがされるのかもしれない。そうでなくとも、いつか敷石は朽ちるだろう。世界に美しい何かが残ることを祈るのみ。
コゴナダ監督の『アフター・ヤン』を見ました。
近未来のある時、ベイビーシッターとして家族の一員となっていたロボットもしくはアンドロイドが故障で動かなくなり、調べているうちに、そのロボットには一日に数秒間だけ、記憶を動画ファイル、フォログラフィのファイルとして記録を残す機能が備わっていて、その記録には家族の大切な時間や謎の知らない女性が移されていて、というようなストーリーでした。
コゴナダ監督は小津安二郎監督を最も敬愛している、ということで、とても静かな映画で、ときおり眠くなりながらも、そのアーティスティックな世界に惹きつけられてしまっていました。
何度も、何度も劇中で使われる"I want to be"という歌詞で始まるとても印象的でかっこいい曲があって、エンドロールを見ていると、Takeshi Kobayashi"のクレジットが出てきてびっくりしてしまう。後から調べてみると、ぼくも過去に見たことのあった岩井俊二監督の『リリー・シュシュのすべて』の挿入歌のリメイクなのでした。テーマ曲は坂本龍一さんでそれももちろん素晴らしい。
たくさんの動画ファイルの記録されているところが宇宙のようで、ぼくは、過去から未来までの世界のすべてがアーカイブされているというゼロ・ポイント・フィールドを妄想してしまう。小津安二郎の映画のように「家族」ということがこの映画大きなテーマで、そこに老子などの東洋思想が暗喩としてちりばめられている。家族の映画を撮りつづけた小津安二郎の墓標は「無」の一字だそうだ。禅? 近代に遅れてやってきた東洋の感受性と思考は出口の見つからない世界へのよき一撃なのであろうか?
ロボットと友だちであるミカを演じる子役のマレア・エマ・チャンドラウィジャヤが天才的に素晴らしくて魅力的。子役が素晴らしいというのは、ぼくは岩井俊二さんの映画を思い出します。
小津安二郎がこの『アフター・ヤン』を見たら、どう思うでしょう? にやりと微笑むのではないかしら?
映画『アフター・ヤン』公式サイト
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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