えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ



『ガムラン×獅子 バリ島×日本「Interactions(相互作用)Vol.2 Light 光」』というコンサートをラゾーナ川崎プラザ・ソルで見ました。インドネシアのバリ島のガムランと日本の鹿踊りのコラボレーションのコンサートでした。
横浜のガムランのチーム、トゥラン・ブランにバリ島からのゲストが入っております。ガムランの金属楽器の音が場内に響きわたり始めると鳥肌が立つかのような何ともいえない驚きの感動をおぼえます。生の演奏にまさるものはありません。篠笛の大野利可さんの演奏も入ります。バリ舞踏の荒内琴絵さんの舞いも入ります。このバリ舞踏はバリからやって来た人が踊っているのかと、ぼくは思ってしまっていました。素晴らしい。
岩手に伝わる鹿踊りを舞うグループは横浜の金津流横浜獅子躍のみなさんで、日本の伝統の力を見せつけてくれるかのようです。聖獣バロンの踊りもありました。鹿踊りを見て、聖獣バロンの踊りを見ると、なんだか近しいもののようにもぼくには感じられ、人びとの移動の歴史とその伝わり、東アジアの文化の共通性を思わずにはおられません。鹿踊りをどこかの森の中の神社の参道で見てみたい。聖獣バロンの踊りを熱帯の森の中の村人の集まるどこかで見てみたい。鹿踊りの鹿もバロンもぼくには神の使いか神そのものであるのは疑いようもないことなのです。素晴らしいコンサートでありました。


ひまわりヨガ道場のきららさんの主催するさくら畑まつりに行ってきました。20年まの間、つづいたさくら畑まつり、気がつけば、ぼくは参加する人の最古参の一人にもなっていました。時は流れ、人はまた去る、思い出だけを残して、とはじゃがたらの江戸アケミの歌った歌詞の一節だけれど、時は流れ、人はまた去る。それでいい、ときららさんもおっしゃておりました。
このさくら畑まつりでは、いつもギターを持って出かけ、数曲、歌わせてもらいます。今日、歌った「飛べ、車椅子」はたいそううけていて、それなりにいい曲なのかな、などと思います。ここで、歌詞を披露。
扉を開けた
歩道を通りぬけ
子どもたちの遊ぶ
森の公園に行った
ヘ、ヘ、ヘイ
飛べ、車いす
どこかに行きたけりゃ
どこにでも行くさ
ぼくが押してゆくと
きみが笑っているよ
ヘ、ヘ、ヘイ
飛べ、車いす
空飛ぶ教室
それとも体育館
旅するピアノ
日曜日のグラウンド
ヘ、ヘ、ヘイ
飛べ、車いす
ときたまうまく行かないこともあるさ
誰かがぼくらを傷つけたとしても
きみとぼくがいるよ ずっと友だちだよ
広い空を駆けて、どこまでも行こう
ヘ、ヘ、ヘイ
飛べ、車いす
飛べ、車いす
飛べ、車いす
大団円のきららさんの舞踏が始まると、曇っていた空が、いつの間にか晴れていました。吉祥なり。


柿崎ゆうじ監督の『陽が落ちる』を見ました。凛として緊張した場面の続く時代劇は、静かなようでいて、凄まじきドラマを裏にはらんでおります。ラストは明るい解決とはほど遠く、闇の中に沈むようで、ぼくの気が滅入らす。イタリア・ネオ・リアリズムなどと称された、ぼくが学生の頃に見たミケランジェロ・アントニオーニ監督の1957年の映画『さすらい』を思い出します。
大江健三郎は自らの小説『みずから我が涙をぬぐいたまう日』のあとがきで日本という天皇が存在している国について、それがあるのと、ないということについて、想像力をめぐらしてほしい、というようなことを批判的な文脈で書いていたけれど、日本に武士道が存在していたことについて、どういうことなのか、ぼくの思考力ではなんとも結論が出ずに考えこんでしまう。たしかに武士道の時代は過ぎ去ったけれど、その武士道の一面のみを見て、美化することなかれ。美化できない残酷なそれはこの『陽が落ちる』も強く教えてくれていて、それはもう一つのありのままの現実のようなのだ。そして、その美しさと残酷さは三島由紀夫の例の事件のように忘れられたころに亡霊のように立ち現れるのかもしれません。静かで美しいけれど、共感とはほど遠い、万人にはお奨めできない衝撃的な映画であります。
映画『陽が落ちる』公式サイト






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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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