えいちゃん(さかい きよたか)

えいちゃんのぶろぐ

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勤めてる会社が赤坂にあるということもあり、金曜の夜には毎週、首相官邸前や国会議事堂まわりで行われている脱原発・反原発の抗議集会に足がむいてしまう。そのあたりは、いつも、本当にたくさんのおじいさん、おばあさん、お母さんが声をあげている。そんな人たちがたくさんいて、孫や子どもたちのためにここに来たのだろうか、と思う。お祭り騒ぎと揶揄されることもあるこの集まりだけど、そんなこともなく、ぼくは行くたびに、逆に沈黙のような深い静かさすら、なぜか感じてしまう。祈りといういつもの言葉でさえ、陳腐に感じてしまう。決められた8時になると、手書きプラカードをバッグに入れて帰りを急ぐそんな人たちを見る。あの2011年3月11日より前のおおよそ3倍の空間放射線量の中で、ぼくは日々暮らしている。それに驚いてしまう。
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明治公園に脱原発のデモに行ってきた。千駄木の駅から人、人、人の大渋滞。明治公園では外の歩道まで人があふれかえっていた。主催者発表で六万人もの参加者だったそうだ。本当かしら。

市民団体とか一般の自由参加の人が集まっているらしいエリアに行き、舞台でのいろんな人の発言を聞こうとしたのだけど、よく聞こえなかった。NHKのニュースで知ったのだけど、ノーベル賞作家の大江健三郎氏は、こんなことを発言していたらしい。

「原子力によるエネルギーは必ず、荒廃と犠牲を伴う。私たちはそれに抵抗する意志を持っていることを、政党の幹部や経団連に、デモで思い知らさねばならない」

大江さん、おじいさんになってもとんがっているねー。

福島在住の女性は涙ぐみながらの発言する。

「福島を忘れないでください」

そこだけはぼくにはっきりと聞こえ、そこに、何本もののぼりの旗が立てられ、こんな文字があった。

「怒 福島隊」
「怒 会津隊」

そのように綴られたいくつもの旗が立ち並ぶ。

当日デモのコースが三つに分かれていて、ぼくは自由参加中心のコースでデモに出発。他の二つのコースは労組や民主団体、政党の人たち。ぼくの入ったコースの回りを見ると、おじいさんとかおばあさん、お母さんみたいな人ばかり。

「うちの孫も20年たてば26才」

というようなプラカードをもっているおじいさんがいる。おじいさん、言いたいことはよくわかりますだ。

三時間半ほど新宿や渋谷の街を、時々は原発反対の声をあげて、歩いた。体は疲れたのだけど、調子悪いのが少し取れていた。運動不足だったのかな。デモはウォークラリーか。それでもいいのだ。目の前のデモの光景が、いかれたぼくの頭にジェームズ・アンソールというベルギーの画家の『キリストのブリュッセル入城』という絵を思いおこさせる。

それにしても、日本の食品の放射線基準値は、ドイツの放射線基準値のおおよそ百倍だそうです。そのドイツの放射線基準値はチェルノブイリの苦しい経験から算出されたものだそうです。これからどうなるか、こわいです。
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近代とか現代とかいうことによっていろんなものを無くしたものだと思う。今日、脱原発デモに参加してみた。参加した五割近くか、五割を超える人たちが女性たちであった。子どもたちの命が放射能の危険にさらされてることを肌身で感じているということだろうか? 長い、長い、長いデモの行列が新宿の街につづく。誰かが言い始め、何度でもぼくもいった言葉、福島をかえせ。胸に刺さった。ぼくの生まれたところは九州なのだけど、故郷ということを思い浮かべる。福島をかえせ。
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ぼくは民主党員でも民主党サポーターでもないのだけど、民主党代表選挙ってどうなるんだろうかと思う。菅直人と小沢一郎という政治家が張り合っているのだけど、ネットで得られる情報と新聞やマスコミで得られる情報が真逆なののが不思議だ。新聞やマスコミは菅寄りでネットでは小沢寄り? 週刊ポストや週刊朝日が小沢寄り? 週刊文春や週刊新潮が菅寄り?

最弱者の層で浮遊したぼくは、菅直人政権になったなら、小泉純一郎や竹中平蔵の推し進めた新自由主義的な政治が本格的に復活しそうなことに恐怖すらおぼえる。
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友だちから、カミサンがこんなことをしているんだと、あるパンフレットをもらった。「チベット本土からインドに亡命した子どもたちの絵」という小さなパンフレット。ぼくは反中国でもなんでもないんだが、チベットのことは、まだ、気になっている。マスコミとかで全然取り上げなくなったけれど、いつか、チベットに自治、そして独立をと願っています。けれど、ぼくは国家主義には疑問。戦争の元だからね。でも、民族とかそれに類した共同体があるとしたら、そのようなものらは自分の生き方を、当然として、自分で決められるべきだと思う。そして、チベットは、チベット的状況として、いたるところにあるとも思う。きみの身近にもあるよ。気づいた方がいいと思うのだが。
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アメリカ合衆国ユタ州での原爆実験で爆心地にあるキノコ雲に向けて歩き始め、突進する兵士たちのムービーです。映画「アトミック・カフェ」の一部です。兵士たちが放射線障害の負ったのは言うまでもない。

The Atomic Cafe 9 of 12

http://www.youtube.com/watch?v=1eVmvnqfMmk
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あるテレビ番組で、文化人とか評論家と称する人たちがこんな言葉を言っていた。

「参院選に敗北した民主党はパーシャルな連合をこれからは模索せざるえなくなったのですよ」

「パーシャルな連合」って何だと思い、調べてみると、「部分的な連合」というような意味らしい。このように言い換えられる。

「参院選に敗北した民主党は部分的な連合をこれからは模索せざるえなくなったのですよ」

もっと分りやすく言うと、「参院選に敗北した民主党は、政策ごとに協力できる他の党との連合をこれからは模索せざるえなくなったのです」ということだろうか? カタカナばやりの今の世の中は明治以来の西洋への劣等感のなれの果てなのだろうか? 例えば、ガバナンスとは統治、コンプライアンスは法令遵守、パラダイムというのはある時代や分野において支配的規範となる物の見方や捉え方なのだそうだ。他にもこんなカタカナの言葉があふれかえっている。カタカナ万歳の世の中です。

海の向こうの概念をこのように、海の向こうのものだと明示しつつ、受容できる日本語の不思議さも感じ、そのカタカナは日本語にとって必要なものだとは思うのだけど、カタカナを連発する文化人たちに、赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」に出てくるキャラクター「イヤミ」のような胡散臭さを感じてしまう。シェー!!

日本語に翻訳不能な英語の単語が、ぼくの好きなアメリカのリズム・アンド・ブルースにはあって、それらの歌に出てくる"baby"や"honey"は日本語には変換できそうにないなー。だから、ぼくはカタカナで「ベイビー」と歌うのです。「ベイビー」を歌えるのは、例えば、キヨシローとかぼくとかそう多くはない。自負しますと言い、照れ笑いしております。
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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