えいちゃん(さかい きよたか)

えいちゃんのぶろぐ

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Meshell Ndegeocelloがアフリカン・アメリカンの怒れる作家、James Baldwinの文学を音楽化した"No Morewater: The Gospel of James Baldwin"を聴きました。アバンギャルドでかっこいい。

Meshell Ndegeocello's "Can I Get a Witness: The Gospel of James Baldwin" | 2016 Fall
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国立能楽堂に能楽を見に行きました。舞囃子「淡路」、狂言「舟船」、能「芦刈」の前に関西学院の教授である金菱清さんの「災害と霊性論 生と死の〈はざま〉」と題されたお話があり、それがとても興味深く、よかったです。ぼくがどうして能、とくに夢幻能に惹かれるのか分かったような気もしました。初めて能を観たのが、世阿弥の作った夢幻能の稀代の名作といわれる「井筒」であったことも思い出しました。

今日、見た能の「芦刈」は夢幻能ではなく、現在能であったけれど、没落して離れ離れになってしまった夫婦が再会し、改めて絆を結ぶという話の喜びと寿ぎに、嬉し嬉しの泪すら溢れそうでもあります。ところで、いつも、能楽堂を出る時、外国の人が、なんとも神妙な表情をされておられ、ぼくはいつか尋ねたくもあるのです。「How do you feel?」と。
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堀口茉純さんの著した『大江戸24時 浮世絵で庶民ライフを物見遊山』を読みました。全ページカラーで有名な浮世絵を手引きに、江戸時代の江戸の暮らしを解説した楽しい本です。江戸前の古典落語やNHKの大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』を見ている人にはお薦めです。けれども、野暮なことを承知で、江戸の栄華が、豪農というような人もいながらも、地方の農村の過酷な犠牲によって成り立っていることも忘れてはならないと思う。吉原の花魁言葉の成り立ちからしても、そのことは明らかだろう。などといいながらも、ぼくは一度、タイムマシーンか何かに乗って江戸の町に行ってみたいなぁと『大江戸24時』を読みながら、思った次第です。

大江戸24時 浮世絵で庶民ライフを物見遊山
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ベリコ・ビダク監督の『キノ・ライカ 小さな町の映画館』を見ました。フィンランドの巨匠、アキ・カウリスマキ監督が鉄鋼業も廃れた斜陽の町、カルッキラに私財を投じて「キノ・ライカ」という映画館を作るというドキュメンタリー映画でした。

アキ・カウリスマキさん自身が作業員として、梯子にのぼって大工仕事をするシーンなどに驚きます。カウリスマキさんの住む何もないような田舎町の仲間たちが、たくさん登場し、おしゃべりをします。ぼくもビデオとかではなく、映画館で見る映画が好きなので、カウリスマキさんの仲間たちの言葉に共感してしまいます。何のストーリーもないけれど不思議に眠たくならないのはどうしたことか?

カウリスマキさんはこの酷い世界にあって、人生も終わりに近づき、この町に何か、よいものを残したかったというのです。じんわりと心が暖かくなり、感動しました。

映画『キノ・ライカ 小さな町の映画館』公式サイト
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昨日、飛び石で車のフロントガラスに小さな傷が入った。そこで憂さ晴らしに読んだ俳句です。

 氷塊のごとき飛び石車撃つ

今日、ニュースを見て、喜び読んだ俳句です。

 ガザの花真冬に咲いた果実なれ

俳句を作ると、なんだか少しすっきりして、日記としての俳句は精神衛生上、非常によろしいと発見した。息を吸っては吐くように、喜びも悲しみも人の心には入口と出口が必要なのかな?
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岸田秀さんの著した『ものぐさ精神分析−増補新版』を読了した。この本は高校生の頃、読んでことがあって、二度目の読書でもあるのだ。

岸田秀ってどんな人と和光大学に通っていた友だちにたずねたことがあるのだが、鬱病っぽい人だよと答えられたことがあったのを思い出す。

この本のほとんどの文章が、岸田さんの考える一つの真理の変奏のように思われる。その真理とは、「人間は本能の壊れた動物であり、「幻想」や「物語」に従って行動しているにすぎない」とする「唯幻論」なのだ。

岸田さんは「我発見被殴打的根本原因」の中で小学生の頃は軍国主義で、よく教師に殴られ、大学で教師になってからは学生に殴られるようになったというのには、不謹慎ながらも、ぼくは笑ってしまう。これも幻想だろうと学生から殴られたとどこかで聞いたことがある。

「わたしの原点」の中では自らの強迫神経症や幻覚を治癒せんがために、フロイト派の精神分析の本を読みあさり、継母との関係における抑圧を発見する。すると、強迫神経症と幻覚はほぼ寛解となったそうだ。

岸田さん自身もこの本の中で少しはふれているのだけれど、ぼくは、岸田さんの生まれたのが1934年だったことも大きかったのではないかと思う。生まれてから11年間、「天皇」という強い「幻想」と強い「物語」の中にいて、その後も「天皇」の「幻想」と「物語」は「民主主義」に抑圧されながらも、社会のもっとも底のところを流れてきた。坂本龍一さんや浅田彰さんのいうところの野蛮な土人としての日本人の思想である。今、柄谷行人さんは、左派の文芸批評家のポール・ド・マンの擁護するベルギー王室についてこのようにいう。

「なぜベルギーではいまも王政が健在なのか。ド・マンを通じて考えて、分かったことがある。ベルギーは、フランス系とドイツ系と、フランドル系が合わさった国なんですね。民族的、宗教的一体性がない。何でまとまっているかといえば、王政によってです。王がいなくなったら、おそらく統一が保てなくなってしまうような国なんだ。王は、ただ存在していればいい。」

まるで日本の象徴天皇制ではないか。佐藤優さんは天皇について考える時、エマニエル・トッドの『西洋の敗北』を射程に入れなくてならないと主張する。野蛮な土人としての日本人の「幻想」と「物語」は何をもたらすのか、今、岸田秀さんに問いかけてみたくもあるのです。

ものぐさ精神分析 増補新版 -岸田秀 著|中公文庫
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伊勢原大神宮に詣りました。この前、出雲大社相模分祠に詣ったのて、日本の神話のことを思えば、伊勢神宮より祭神を勧請し創建された伊勢原大神宮に詣ってみることもよかろうと思った次第です。なるほど、伊勢原大神宮には外宮と内宮がございます。伊勢の神様があって、出雲の神様があっての日本の成立となったのではないか?

天皇は自らを「King」とは称せず、「Emperor」と称すけれど、それは「大日本帝国」への郷愁などではありもせず、日本は東の果てのさまざまな民族の吹き溜まりという出自を持ち、天皇はその出自を隠蔽しつつ、露わしてしまうという両義性を持つ存在で、そういう意味でも伊勢の神と出雲の神があるとも思われるのです。

閑話休題、伊勢原大神宮に戻り、御神籤をひくと「中吉」でありました。これをもって新年の初詣巡りを了としたいと思うのでした。

「おみくじ

 第十九番 中吉 運勢

 運あるが能力以上のものに手をだすは失敗の元。
 敵を作らぬように控えて身を守り、多くを求めぬが得策。
 意地を通して成果なし。」

ゆめゆめうたがふことなかれ
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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