えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
六本木というか西麻布にある「音楽実験室 新世界」というところで催された「テ祭2014」というライブを見に行ったら、お酒をおごられるDJからお酒をおごられてしまったよ。なはは(へ。へ)ζ。
一部のDJタイムでは美空ひばりがずっとかかっておりましたな。それを聴いて、1950年代の美空ひばりとそのバック・バンドの音楽性の高さにひれ伏したくなりました。ひばりの唄の節回しもすばらしいし、バンドと一体となったはずむリズムがディープです。
セカンドのDJタイムではデヴィッド・ボウイからテレビジョンになだれ込み名曲「マーキー・ムーン」がかっこよすぎです。この「マーキー・ムーン」の張りつめたエキセントリックな緊張感がたまりません。
さて、今夜のメインはオーセンティックなレゲエ・バンドの西内徹バンドでした。そこにからむ内田直之さんの生ダブがするどくかっこよかったのだけど、アンコール前の日本語の一曲が一番好きな感じです。
そして、ふと周りを見回すとわしよりずっと若い人ばっか。その若いみんなも後15年もすれば、こんなところには来なくなるのかしら。それはそれで人の人生だからいいかもしれないけれど、いまだにここに来てしまい、普通にフット・ストンプしてしまうわれは、レッド・アラートの希少生物なのかもしれんなぁ。
そして、三度目のDJタイムでかかったトマトズにほろりとして、家路についたのでした。
見たいと思っていて見逃した映画をレンタルDVDで見ました。ウェイン・ブレア監督のオーストラリア映画「ソウル・ガールズ」。
アメリカがベトナムと戦争していたころ、ベトナムのアメリカ兵に人気をはくしたオーストラリアのアボリジニの女の子たちのソウル・ミュージックを歌うコーラス・グループ、サファイアズ(The Sapphires)のお話。なんと、実話をもとにした映画なんだそうです。
サファイアズのマネージャー兼ピアニストを務めるソウル・ミュージックが死ぬほど大好きなアイルランド系白人のアル中男のデイブを演じるクリス・オダウドがいい味を出しています。
当時のアボリジニたちへの過酷な仕打ちやベトナム戦争、公民権運動の時代背景がかみ合い、そこに、ソウル・ミュージックがすくっと立っています。ますます、ソウル・ミュージックが好きになってしまいますね。真夜中にジェームズ・ブラウンやアレサ・フランクリン、サム・クックやオーティス・レディング、ローラ・ニーロやキャンディ・ステイトン、エッタ・ジェームズ、サム・アンド・デイブ、マービン・ゲイなど、大音量で聴きたくなりますわ。あぁ、止まらない。けれど、もう寝なきゃ。おやすみZZZzzz.....
http://soulgirls.jp/index.html
ハヤカワepi文庫の高橋和久さんが新たに訳したジョージ・オーウェルの「一九八四年」を読了した。新しい訳に読みやすい日本語になっているそうですが、巻末に付けられたトマス・ピンチョンの解説もおもしろい。オーウェルについてピンチョンは、オーウェルは自分が"反体制的左派"の一員であると考えていた、これは基本的に英国の労働党を意味するとし、この「一九八四年」の解説で端的に鋭いことを書いている。ぼくがなるほどと思った文章を引用してみます。
「労働党とスターリン政権下の共産党との間に類似性が見いだせることを多少とも意識していたのである。彼にとっては、どちらも労働者階級のために資本主義と闘う運動を装いながら、現実には、自己の権力の確立と永続化に腐心しているに過ぎなかった。大衆は、その理想主義、階級格差に対する怒り、そして低賃金を厭わない労働意欲につけこまれ、ただ利用されるためだけに存在し、繰り返し何度も裏切られるのだ」
自由の国、アメリカに存する謎めいたもっとも代表的な現代の小説家の言うことは正鵠を得ているような気もするのだった。しかも、これは左派の政治組織に限らず、あらゆる組織に今や瀰漫していはしないだろうか。
この小説の本国であるイギリスでは「一九八四年」はもっとも有名で読まれない小説であるとも言われているらしい。けれども、オーウェルの自由とヒューマニティを失わない何らかの左派精神のようなものはジャンルを超え、映画監督で言えばケン・ローチ、ロック・ミュージシャンで言えば、そのものずばり"1984"というアルバムもあるデヴィッド・ボウイ、そして、ション・レノンやジョー・ストラマー、モリッシーらに広範に受け継がれているのではなかろうか。
「一九八四年」は第二次世界大戦終結後の1948年の早きに書かれていて、その小説家の想像力の横溢がリアルを追いかけるさまに驚いてしまう。わけのわからない支離滅裂に崩壊した宇宙、偉大なる失敗作なのだと思った。
「労働党とスターリン政権下の共産党との間に類似性が見いだせることを多少とも意識していたのである。彼にとっては、どちらも労働者階級のために資本主義と闘う運動を装いながら、現実には、自己の権力の確立と永続化に腐心しているに過ぎなかった。大衆は、その理想主義、階級格差に対する怒り、そして低賃金を厭わない労働意欲につけこまれ、ただ利用されるためだけに存在し、繰り返し何度も裏切られるのだ」
自由の国、アメリカに存する謎めいたもっとも代表的な現代の小説家の言うことは正鵠を得ているような気もするのだった。しかも、これは左派の政治組織に限らず、あらゆる組織に今や瀰漫していはしないだろうか。
この小説の本国であるイギリスでは「一九八四年」はもっとも有名で読まれない小説であるとも言われているらしい。けれども、オーウェルの自由とヒューマニティを失わない何らかの左派精神のようなものはジャンルを超え、映画監督で言えばケン・ローチ、ロック・ミュージシャンで言えば、そのものずばり"1984"というアルバムもあるデヴィッド・ボウイ、そして、ション・レノンやジョー・ストラマー、モリッシーらに広範に受け継がれているのではなかろうか。
「一九八四年」は第二次世界大戦終結後の1948年の早きに書かれていて、その小説家の想像力の横溢がリアルを追いかけるさまに驚いてしまう。わけのわからない支離滅裂に崩壊した宇宙、偉大なる失敗作なのだと思った。
クリント・イーストウッド監督の最新映画「ジャージー・ボーイズ」を見ました。
「シェリー」で有名なドゥーワップのコーラスグループ「フォーシーズンズ」のメイン・ボーカルであり、ソロとなってからのヒット曲「君の瞳に恋してる(Can't Take My Eyes Off You )」は何度もリヴァイバルし、いろんなアーティストが取り上げてるフランキ・ヴァリの彼を取り巻くフォー・シーズンズのメンバー、ボブ・ゴーディオ、トミー・デヴィート、ニック・マッシの視点も交えた自伝映画です。
フォーシーズンズの「シェリー」のヒット前の1950年代のアメリカがなんともまぶしい。ニュージャージーに生まれた育ったイタリア系不良少年たちの青春の日々とその後の栄光、挫折、分裂、再会に彼らの人生はそれでも素晴らしかったと思う。そして、音楽は輝き続けているのです。
http://wwws.warnerbros.co.jp/jerseyboys/
山口淑子さんも今年、召されてしまったのかと思い、追悼の気持ちも込めて彼女の著した「私の履歴書 「李香蘭」を生きて」を読んだ。日本経済新聞の連載がとても好評で単行本になっています。波乱万丈を絵に描いたような人生だった。そして、前の大戦中に中国がどのようなことになっていたか、この本を読むと、その空気の中につれていかれるようなのだけど、山口淑子さんは日本のことを祖国と呼び、中国のことを母国と呼ぶ。敗戦の時、とめどもなく涙を流した理由はこの本に書いてあった。
「私の祖国日本と母国中国の若者が、もう殺しあわなくていいのが心底うれしかった。「死ななくてすむのよ、終わったのよ」。私は同じ言葉を呪文のように繰り返しながら、路地から路地へ三時間も洋車(ヤンチョー 日本の人力車に似てる)を走らせていた」
「李香蘭」と書いて中国では「リーシャンラン」と呼ぶ。美しい響きです。おやすみZZZzzz.....