えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
こんな夢を見た。ぼくの目の前に透明なガラスの花瓶があって、それは冷たく凍りついている。ぼくはそこに暖めた水をそそごうとする。花瓶の口のすぐ下のあたりが細くなっていて、そこが水滴で凍りつき、入り口を塞いでいることに気づかず、ぼくは暖かい水をそそいごうとし、すぐに溢れそうになる。ぼくは溢れると思い、すぐにそそぐことをやめるが、その凍りつき細くなったところが割れてしまう。すると傍らにいたぼくの父が諭すようにこう言う。
「冷たく凍りついたものに温かいものをそそぐと壊れてしまうよ」
ぼくは、壊れたそれをそっと拾い集めようとする。
すると目が覚めた。この夢はフロイトとユングではずいぶん解釈が違うだろうな、などと思っていいると、天の上にいるらしい河合隼雄博士がこうぼくに問うかのようなのだ。
「冷たく凍りついたものに温かいものをそそぐのではないとしたら、どうすればいいと思う?」
ぼくはその問いに答える。
「そっとやさしく手で花瓶をつつみこみ、やさしく少しづつ、温めればよかったのでしょうか?」
すると、今度はユング博士が、ぼくの問いには答えずに、こう語りかけるのを聞いたような気がしたのです。
「それは夢の中なのだから、錬金術というものがあって、それが、あなたのその花瓶を蘇生させ、新しく生まれ変わらせもするのですよ」
ぼくがその言葉をを聞いたような気がした時、透明なガラスの花瓶ではなく、その花瓶の生まれ変わりである、海のどこまでも澄みきったブルーのガラスの色の花瓶が目の前にあって、それを見たような気もしたのです。それはターコイズのかがやけるよう澄んだなまぶしさでもありました。
「冷たく凍りついたものに温かいものをそそぐと壊れてしまうよ」
ぼくは、壊れたそれをそっと拾い集めようとする。
すると目が覚めた。この夢はフロイトとユングではずいぶん解釈が違うだろうな、などと思っていいると、天の上にいるらしい河合隼雄博士がこうぼくに問うかのようなのだ。
「冷たく凍りついたものに温かいものをそそぐのではないとしたら、どうすればいいと思う?」
ぼくはその問いに答える。
「そっとやさしく手で花瓶をつつみこみ、やさしく少しづつ、温めればよかったのでしょうか?」
すると、今度はユング博士が、ぼくの問いには答えずに、こう語りかけるのを聞いたような気がしたのです。
「それは夢の中なのだから、錬金術というものがあって、それが、あなたのその花瓶を蘇生させ、新しく生まれ変わらせもするのですよ」
ぼくがその言葉をを聞いたような気がした時、透明なガラスの花瓶ではなく、その花瓶の生まれ変わりである、海のどこまでも澄みきったブルーのガラスの色の花瓶が目の前にあって、それを見たような気もしたのです。それはターコイズのかがやけるよう澄んだなまぶしさでもありました。
こんな夢を見た。ぼくはある女の人とデパートの中で会っている。その女の人は、ぼくに渡したいものがあると言って、屋上までついてきてとも言う。ぼくと女の人が屋上に行くと、大きな丸いテーブルにぼくの知らない男たち五人がすわり、ウィスキーを飲みながら、宴会のようなことをしている。五人とも髭づら、1970年代のロック・バンド、イーグル―スやザ・バンドの人たちのようだ、もしくは、そんな雰囲気をただよわせている。その男たちの中の一人から、バッグを受け取り、その中から何か、もしかして大切なものを取り出して、渡そうとするのだけど、ああ、そうなのか、と思い、さらに、ぼくは、彼女が遠いところの人になったような気がして寂しいな、とも思う。
そこで目が覚めた。彼女は何を渡そうとしたのだろうか。もうすこし、目覚めず、夢の中にいればよかったかもしれないけれど、その秘密も時がくれば、解き明かされるのかな。
そこで目が覚めた。彼女は何を渡そうとしたのだろうか。もうすこし、目覚めず、夢の中にいればよかったかもしれないけれど、その秘密も時がくれば、解き明かされるのかな。
河合隼雄さんの著しわしたものを河合隼雄さんの子息の河合俊雄さんが編纂した岩波現代文庫の「<心理療法>コレクション」の中の一冊「ユング心理学と仏教」を読む。「I ユングか仏教か」の章でなぜ、自分の心理療法の患者への治療を進めていくうちに、仏教の考え方へ近接すらしていったのか、その発端から始まり、「II 牧牛図と錬金術」では十牛図の物語に興味深い紐解きもなされ、その後、西洋から東洋、東洋から西洋へとその文化を照射しつつ、さらなる東洋の思想の深みに錘をおろすかのようなのだ。
「まえがき」でデイヴィッド・H・ローゼンさんが河合さんへ捧げている芭蕉の句です。
「此のあたり目に見ゆるものは皆涼し」
「IV 心理療法における個人的・非個人的関係」ではこう述べられる。
「人間関係を個人的な水準のみではなく、非個人的な水準にまでひろげて持つようになると、その底に流れている感情は、感情とさえ呼べないものではありますが、「かなしみ」というのが適切と感じられます」
この章はこう結ばれる。
「クライアントにそのような楽しい世界のよさを教えたりするよりよりも、心理療法を行うとき、私はかなしみの中心に自分を置こうと心がけている、と言えます。その場にずっといると、楽しい世界が自然にひらかれていきます」
河合さんは学者や文筆家であるよりもまず、悩み苦しむものを治療しようとする医師であったような気もするのです。そして、河合隼雄さんの「エピローグ」でのしめくくりの言葉としてあげられた作者不詳の西洋人の詩「1000の風」。
「『1000の風』
訳 南風椎
私の墓石の前に立って
涙を流さないでください。
私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。
私は1000の風になって
吹きぬけています。
私はダイアモンドのように
雪の上で輝いています。
私は陽の光になって
熟した穀物にふりそそいでいます。
秋には
やさしい雨になります。
朝の静けさのなかで
あなたが目ざめるとき
私はすばやい流れとなって
駆けあがり
鳥たちを
空でくるくる舞わせています。
夜は星になり、
私は、そっと光っています。
どうか、その墓石の前で
泣かないでください。
私はそこにはいません。
私は死んでないのです。」
「まえがき」でデイヴィッド・H・ローゼンさんが河合さんへ捧げている芭蕉の句です。
「此のあたり目に見ゆるものは皆涼し」
「IV 心理療法における個人的・非個人的関係」ではこう述べられる。
「人間関係を個人的な水準のみではなく、非個人的な水準にまでひろげて持つようになると、その底に流れている感情は、感情とさえ呼べないものではありますが、「かなしみ」というのが適切と感じられます」
この章はこう結ばれる。
「クライアントにそのような楽しい世界のよさを教えたりするよりよりも、心理療法を行うとき、私はかなしみの中心に自分を置こうと心がけている、と言えます。その場にずっといると、楽しい世界が自然にひらかれていきます」
河合さんは学者や文筆家であるよりもまず、悩み苦しむものを治療しようとする医師であったような気もするのです。そして、河合隼雄さんの「エピローグ」でのしめくくりの言葉としてあげられた作者不詳の西洋人の詩「1000の風」。
「『1000の風』
訳 南風椎
私の墓石の前に立って
涙を流さないでください。
私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。
私は1000の風になって
吹きぬけています。
私はダイアモンドのように
雪の上で輝いています。
私は陽の光になって
熟した穀物にふりそそいでいます。
秋には
やさしい雨になります。
朝の静けさのなかで
あなたが目ざめるとき
私はすばやい流れとなって
駆けあがり
鳥たちを
空でくるくる舞わせています。
夜は星になり、
私は、そっと光っています。
どうか、その墓石の前で
泣かないでください。
私はそこにはいません。
私は死んでないのです。」
ありがとう、ヒロコちゃん。ありがとう、高雄文さん。ありがとう、村上店長。ありがとう、あたたかいお客さま。
小田急相模原エルトピーとトでのライブのようすです。楽しかった。
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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