えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

ビルボード東京でスペンサー・ウィギンスのライブを見た。ディープ・ソウルの伝説のシンガーは、うつむいてただ歌っているだけなのに、ぼくの涙腺は決壊し、目からのお水が止まらなくなったのです。管楽器も入ったホッジス兄弟の率いるバンドの演奏も完璧。ハモンド・オルガンに2発のレズリー・スピーカー。重くねばるリズム。サザン・ソウル、最高です。
スペンサー・ウィギンスがホッジズ・ブラザーズらとの豪華編成で来日
ぼくの大好きなこの曲も歌ってくれたんだよ


国立新美術館でミュシャ展を見た。展示室に入るなり鳥肌が立った。大きくて美しい絵がそこにあったから。
19世紀末、広告の時代の始まり、来る大量生産と大量消費の時代の予感を感じさせるそんな時代に、花の都パリでは、芸術家たちがその磁力に引き寄せられたかのように集まり、オーブリー・ビアズリー、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、アルフォンス・ミュシャの三人がそれぜれに描いたポスターが街頭には貼られていたはず。ビアズリーとロートレックの二人は19世紀の終わりとともにこの世を去り、20世紀にミュシャの一人だけが残された。
20世紀は国の独立と戦争の時代であった。ミュシャは20世紀のいよいよ始まった1910年に故郷のチェコに帰り、この「スラブ叙事詩」と題された20点の大きくて美しい連作の絵画を描きつづける。1918年は、オーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立し、新国家のために紙幣や切手、国章などのデザインを無報酬で行った。そして、つかのまの春の時であったかのように、1939年3月、ナチスドイツによってチェコスロヴァキア共和国は解体され、ミュシャはドイツ帝国に抗う退廃芸術家として尋問され、どのような尋問かは記録に残されていなく、それは拷問でもあったのかもしれない。ミュシャは体調を崩し、釈放され、その4ヶ月後の1939年の7月に逝ってしまう。しかし、「スラブ叙事詩」の20枚がナチスに焼かれなくてよかった。
第二次世界大戦の終わりとともにチェコは解放され、祖国は再び独立する。時の共産党政権は、ミュシャの愛国心との結びつきを警戒し、黙殺しつづけた。それでも、チェコの人びとの間にミュシャへの敬愛は残り、プラハの春の翌年の1969年にミュシャの絵画切手が数種発行されている。
鈴木邦夫さんのような人はこの「スラブ叙事詩」をどう見るのだろうか? 鈴木邦夫さんの敬愛する三島由紀夫はその死の前年にこのようなことを書いている。
「実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる」
おっと、脱線しすぎたようです。美術館のミュシャの略歴のところのには、たしか「スラブ叙事詩」が発表された時の解説として「スラブ民族の倫理的な発展」とあったと思う。
チェコの門外不出の芸術「スラブ叙事詩」を、もしも時間がありますならば、無心でご覧ください。国立新美術館では草間彌生展も同時開催されております。
ミュシャ展


奥野修司さんの著した「魂でもいいから、そばにいて 3・11後の霊体験を聞く」を読んだ。
悲しく、寂しい聞き書き集なのだけど、なぜか心がほっこり暖かくなるのは、霊となって現れた死者たちのやさしさと、生きている人たちの逝ってしまった人への深い思いによる。これらの聞き書きした話は奥野修司さんも書いているようにもう一つの現代に現れた「遠野物語」のようでもあるかのようだ。これらの物語は柳田國男が書いた「遠野物語」の第九十九話の時を隔てた補遺なのかもしれない。それは科学の網では掬えない魂の物語でもあるかのよう。
この前、読んだ大城道則さんが編著した「死者はどこへいくのか 死をめぐる人類五〇〇〇年の歴史」にもあるような、日本人の彼岸観、あの世に対する見方を思う。日本人にとってあの世とは、空の上の天国にあるのではなく、大きな河に隔てられているところでもなく、三本川の草履でも履いて、小石をつたって渡れそうな近くにあるところのようなのだ。
ぼくも震災の年に人ではないけれど、その年の十月に愛犬を亡くし、その犬に再会するたくさんの夢も見たのだけど、あのレオも遠いところに旅立ってしまったのではなく、ちょっと散歩に出て、帰りが遅れているだけなのかもしれない。そして、そのうちぼくも散歩に出かけるように会いにいくのだけなのかもしれない。
その近しさは、昔、読んだアイルランドの小説家、ジェイムズ・ジョイスの短編「死者たち」に出てくる描写「死者たちにも生きている人たちにもひとしく雪は降っていて、この世界を白くおおいつくす」にあるような近しいそれで、それは「魂でもいいから、そばにいて」の書かれなかった「冬の旅」の章ではなかろうか。
奥野修司さんのいうように、人とは物語を生きる生きもので、多くの東北の人が死んでしまった人と生きている人をわけ隔てない、そんな物語を生きていて、それは愛のことのよう。「愛」は「遭い」や「会い」や「合い」のことでもあるのではないかしら。
悲しく、寂しい聞き書き集なのだけど、なぜか心がほっこり暖かくなるのは、霊となって現れた死者たちのやさしさと、生きている人たちの逝ってしまった人への深い思いによる。これらの聞き書きした話は奥野修司さんも書いているようにもう一つの現代に現れた「遠野物語」のようでもあるかのようだ。これらの物語は柳田國男が書いた「遠野物語」の第九十九話の時を隔てた補遺なのかもしれない。それは科学の網では掬えない魂の物語でもあるかのよう。
この前、読んだ大城道則さんが編著した「死者はどこへいくのか 死をめぐる人類五〇〇〇年の歴史」にもあるような、日本人の彼岸観、あの世に対する見方を思う。日本人にとってあの世とは、空の上の天国にあるのではなく、大きな河に隔てられているところでもなく、三本川の草履でも履いて、小石をつたって渡れそうな近くにあるところのようなのだ。
ぼくも震災の年に人ではないけれど、その年の十月に愛犬を亡くし、その犬に再会するたくさんの夢も見たのだけど、あのレオも遠いところに旅立ってしまったのではなく、ちょっと散歩に出て、帰りが遅れているだけなのかもしれない。そして、そのうちぼくも散歩に出かけるように会いにいくのだけなのかもしれない。
その近しさは、昔、読んだアイルランドの小説家、ジェイムズ・ジョイスの短編「死者たち」に出てくる描写「死者たちにも生きている人たちにもひとしく雪は降っていて、この世界を白くおおいつくす」にあるような近しいそれで、それは「魂でもいいから、そばにいて」の書かれなかった「冬の旅」の章ではなかろうか。
奥野修司さんのいうように、人とは物語を生きる生きもので、多くの東北の人が死んでしまった人と生きている人をわけ隔てない、そんな物語を生きていて、それは愛のことのよう。「愛」は「遭い」や「会い」や「合い」のことでもあるのではないかしら。




大城道則さんが編著した「死者はどこへいくのか 死をめぐる人類五〇〇〇年の歴史」を読了した。
この本は太古の昔から現在まで、人類が死というものと考えてきたのかを、書き表したもの。読み物というより、研究者が書いた学術論文で、少し難しい。
大城道則さんが「はじめに」と「あとがき」と古代エジプトの死生観、 月本昭男さんが旧約聖書の死生観、松村一男さんがギリシア・ローマ時代の死生観、菊地達也さんがイスラム教の死生観、久恒晃代さんがインドの死生観、設楽博己さんが日本の先史時代の死生観、伊藤由希子さんが古代日本人の死生観、竹内整一さんが近代日本人の死生観を書いた。
やはり日本人の死生観に親しみを感じてしまいます。伊藤由希子さんの書いた平安時代初期の「日本霊異記」の世界が深沢七郎の「楢山節考」に結節していくところが興味深く、さらに、竹内整一さんの章に出てくる近代の仏教思想家、金子大栄が親鸞の「歎異抄」の註解で述べた「花びらは散る 花は散らない」を美しいと思ったのです。
この本は太古の昔から現在まで、人類が死というものと考えてきたのかを、書き表したもの。読み物というより、研究者が書いた学術論文で、少し難しい。
大城道則さんが「はじめに」と「あとがき」と古代エジプトの死生観、 月本昭男さんが旧約聖書の死生観、松村一男さんがギリシア・ローマ時代の死生観、菊地達也さんがイスラム教の死生観、久恒晃代さんがインドの死生観、設楽博己さんが日本の先史時代の死生観、伊藤由希子さんが古代日本人の死生観、竹内整一さんが近代日本人の死生観を書いた。
やはり日本人の死生観に親しみを感じてしまいます。伊藤由希子さんの書いた平安時代初期の「日本霊異記」の世界が深沢七郎の「楢山節考」に結節していくところが興味深く、さらに、竹内整一さんの章に出てくる近代の仏教思想家、金子大栄が親鸞の「歎異抄」の註解で述べた「花びらは散る 花は散らない」を美しいと思ったのです。


小川洋子さんの著した「博士の愛した数式」を読了した。おもしろかった。
数学の博士、家政婦さんと彼女の子どもである十歳になる男の子のこの物語を読みながら、ふと友だちのもと数学教師の彼を思い出した。子ども好きな彼がもっと齢をとれば、この物語の老数学者のようになるのではないかと想像してみた。それは、ちょっぴり楽しい想像でもあった。
三人を結びつかせているのは数学の数式、数でもあり、阪神タイガースなのでもあり、三人の胸の奥にある純真さのようなものが暖かい。
阪神タイガースのエース、江夏豊の背番号は28で、それは完全数だというのがこの小説に出てくるけれど、ぼくの大好きなシカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダンの背番号は23だった。数学としてはどういう数字なだろう?


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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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