えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
むずかしくて面白いことが書いてあるような気がして読み進めるうちに、これはイカれた坊さんの狂言やら戯言のような気がしてきた。そう思うことも面白い。禅という日本で根付いた無心についての鈴木大拙の講演をそのまま本にしたものなのだけど、無心を論理的に解説することは難しく、修辞法的になり、また論理的になり、そして修辞法的になり、ロジックとレトリックを行ったり来たり、ついには言葉で言い表せない領域なのだろうか? 坐禅組んで、修行しますか? この講演がなされたのは昭和十四年、1939年で米国との戦争が始まる1年前。結語に引用される本浄禅師の言葉。
「見聞覚知して障疑あることなし、
声香味触の裡にありて常に三昧なり。
鳥の空中にしもに翔ぶが如し。
取なし、捨なし、憎愛なし。
若し処に応じて本を無心となること会せば、
始めて名づけて観自在となすことを得む。」
おしょう、その心は? 喝!
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