えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ



山梨県の忍野へ釣りの旅に行きました。
時おり小雨の降る中、これは釣れる天気だなどと高を括っていたのですが、一日目はボーズ(一匹も釣れないこと)。泊まった宿でどうしたものかと思いつつ、テンカラ釣りで、この忍野でホイホイ釣っている人のムービーを発見。二日目は西洋の毛鉤釣りのフライフィッシングではなく、日本古来からある毛鉤釣りのテンカラ釣りで行くことに決めました。さて、二日目、今日はいい天気。やっぱり釣れず、最近よく俳句を作っているぼくは一句できてしまいましたよ。
夏越えの鱒を釣らずに草を釣る
草ボーボーの忍野で下手なぼくは毛鉤を草によくからめるんです。俳句は映画監督、小津安二郎もよく読んでいたそうです。などと発句したら立て続けに二匹釣れて、今回の釣りの旅のボーズを免れました。よかった、よかった。
時おり小雨の降る中、これは釣れる天気だなどと高を括っていたのですが、一日目はボーズ(一匹も釣れないこと)。泊まった宿でどうしたものかと思いつつ、テンカラ釣りで、この忍野でホイホイ釣っている人のムービーを発見。二日目は西洋の毛鉤釣りのフライフィッシングではなく、日本古来からある毛鉤釣りのテンカラ釣りで行くことに決めました。さて、二日目、今日はいい天気。やっぱり釣れず、最近よく俳句を作っているぼくは一句できてしまいましたよ。
夏越えの鱒を釣らずに草を釣る
草ボーボーの忍野で下手なぼくは毛鉤を草によくからめるんです。俳句は映画監督、小津安二郎もよく読んでいたそうです。などと発句したら立て続けに二匹釣れて、今回の釣りの旅のボーズを免れました。よかった、よかった。


佐野元春のコンサートを見に、東京フォーラムのホールAに行きました。最新アルバムからの曲を連発して演奏し、バックのスクリーンもビジュアルが素晴らしく、今の時代のメッセージはビシビシと届きます。バックのCOYOTE BANDも絶好調。すべて、かっこいい。
2回目のアンコールで佐野元春はこんなことをMCしておりました。「大瀧詠一もパンタも清志郎も坂本龍一ももういない。なんていうの、ひとりぼっちって感じ。でもまだやりつづけるから、一緒にこの歌を歌ってくれ」と言って、歌い始めた「サムデイ」。会場中が懐かしさではない何かで唱和する。最新アルバム『今、何処』は最高だった。一緒に行ったぼくの友だちは、「佐野元春はぶれないね」と言っておりました。ますます嫌な時代になって、ロックしつづけるしかないぜ。


平山周吉さんの著した『満州国グランドホテル』を読む。前の大戦での中国での戦争において日本が「王道楽土」、「五族協和」を謳い、でっち上げ的に作り上げた満州国を、グランドホテルに見立て、そこに出入りした、さまざまな人たちを一人一回、一章で取り上げ、全三十六章、全565頁の大著であった。
その冷静な筆致に満州国に出入りした魑魅魍魎のような人たちがくっきりと浮かび上がりかのようで素晴らしい。三十六人の人以外の超有名人、甘粕正彦、岸信介、李香蘭などは何度もこの本に登場する。
ちなみに甘粕正彦はベルナルド・ベルトリッチ監督の『ラストエンペラー』で坂本龍一に演じられたけれど、この映画の描く満州国はそのさまざまな細部においてフィクションばかりの嘘ばかりなのを思い出す。坂本龍一さんはベルトリッチ監督の甘粕正彦の割腹自殺の最期を抗議し、ピストル自殺に改めさせたが、それすらフィクションで、史実は青酸カリの服毒自殺であった。この『満州国グランドホテル』や山口淑子(李香蘭)の著した『李香蘭 私の半生』によれば、天皇が敗戦を宣言するその前日か何かに満洲映画協会の社員が一同集められ、甘粕は敗戦を明らかにし、日本女子はその貞節を最後まで貫かなくてはならないと言い、全女子社員に小さな宝石箱が配られたという。その集会が終わり、宝石箱を開けると、中には致死量の青酸カリが入っていたが、それを服用し、自殺する人はいなかった。事実はベルトリッチの考えたフィクションよりも奇なり。
さて、『満州国グランドホテル』に戻り、最終章の「第三十六回 「北海道人」島木健作が持ち帰った一匹の「満州土産」」では柄谷行人の批評文も引用しつつ、満州国に批判的に迫ろうとしている。あまりに鋭い柄谷さんの文を引用する。
「この点にかんして参照すべきものは、日本と並行して帝国主義に転じたアメリカの植民地政策である。それは、いわば、被統治者を「潜在的なアメリカ人」とみなすもので、英仏のような植民地政策とは異質である。前者においては、それが帝国主義的支配であることが意識されない。彼らは現に支配しながら、「自由」を教えているかのように思っている。それは今日にいたるまで同じである。そして、その起源は、インディアンの抹殺と同化を「愛」と見なしたピューリタニズムにあるといってよい。その意味で、日本の植民地統治に見られる「愛」の思想は、国学的なナショナリズムとは別のものであり、実はアメリカから来ていると、私は思う」
さて、この『満州国グランドホテル』に登場するのは軍人、官僚、映画人(笠智衆、原節子、小暮美千代)、文学者(小林秀雄)、小説家、言論人(石橋湛山)、右翼活動家(世界的なクラシック音楽の指揮者小澤征爾さんの父)などエリート層ばかりで、一般の民間人、開拓民、庶民は後景の遠のいている。そのことについて、平山周吉さんは深く後悔しているらしいことを「あとがき」で知った。第五回の八木義徳のに出てくる、八木の聞いた満鉄に揺られながらの夫婦の言葉「広うおまんな、広うおまんな」が常に平山さんの胸に、その後、その夫婦はどうなったかのかという思いとともに繰り返されたという。その声にまだ十代の若さのぼくの亡き父の「広いのう、広いのう」という九州弁が重なるかのようだ。敗戦後、生死をさまよう辛酸をなめて帰国したらしいが、父がそのことを詳しく語ることはなかった。本を閉じる。


渋谷のWWWへ"SUKIYAKI TOKYO"というイベントを見に行きました。
Frente Cumbieroはコロンビアの最先端のエレクトロニック・クンビア・バンド。ハードエッジな振り切れたリズムが心地よく、かっこいい。ステージのバックのグラフィックも面白くて素敵。クンビアとはコロンビアにある民謡のような演歌のような河内音頭のような昔からあるポップ・ミュージックで、このブラジル、アルゼンチンに次ぐ南米三番目の大きな国の音楽は南米中の音楽に影響を与えているらしい。2018年のフジロックに来ているということだけど、このようなバンドの来日公演が日本で見られる日が来るとは思っていなかった。リズムは世界をつなぐ。
迎える日本からは民謡クルセイダーズ。日本の民謡にラテンのリズムをフュージョンした安定のグルーブ。そして、Frente Cumbieroと民謡クルセイダーズの混成バンド、民謡クンビエロの圧巻のリズムに待望の新曲。会場中が踊りまくり、熱狂の渦となり、満月の一日前の夜はふけていきました。


昼は相模大野の相模女子大学グリーンホールで「相模原薪能」、夜は新宿末廣亭で落語や色物を楽しみました。
能は狂言と仕舞が能と組み合わさって演じられるのだけれど、本日の狂言は「附子(ぶす)」でした。ぼくにも分かりやすく、面白く、笑ってしまいます。この「附子」は落語の「饅頭こわい」の原型だろうか、などと思ってしまう。能は「土蜘(つちぐも)」が演目で、それは素晴らしいものでありました。世阿弥は日本が生んだ芸術の天才だと思う。それから最近、小津安二郎の映画をたくさん見たのだけれども、小津安二郎の映画はどこか能を思わせる何かがあると思う。能が演じられたその死者やものの怪を悼む物語の後、ひっそりと舞台に佇む「老松」の絵すら何か余韻を税込み、吐き出し、息をしているかのような、神秘的な美しさにぼくは魅了されてしまいます。
夜の寄席のお目当ては林家正雀師匠が林家彦六から直伝の怪談咄の落語を長講で行うという。その前に江戸家猫八師匠の物まねも見ました。今の猫八師匠は三代目で一代目、二代目の猫八の顔を思い浮かべてしまい、過ぎ去った自らの齢もなんだか思い浮かべてしまいつつ、動物の鳴き真似とそのはなしっぷりに笑ってしまいます。そして、ついに主任、林家正雀師匠は「真景累ヶ淵」を話してくれましたが、末廣亭は日本で一番古い現存している寄席小屋で、本当に幽霊が見えてしまうのじゃないかと、ぼくは辺りを見回してしまいます。怖いよ。話の後、彦六は怪談の後はいつも舞いを踊っていたと正雀師匠も舞いを披露。その舞いは邪気を払うというより、無念を呑んで死んだ女たちへのせめてもの慰めの愛のようなものの気がして、咄家さんのやさしさを感じてしまいました。
能は狂言と仕舞が能と組み合わさって演じられるのだけれど、本日の狂言は「附子(ぶす)」でした。ぼくにも分かりやすく、面白く、笑ってしまいます。この「附子」は落語の「饅頭こわい」の原型だろうか、などと思ってしまう。能は「土蜘(つちぐも)」が演目で、それは素晴らしいものでありました。世阿弥は日本が生んだ芸術の天才だと思う。それから最近、小津安二郎の映画をたくさん見たのだけれども、小津安二郎の映画はどこか能を思わせる何かがあると思う。能が演じられたその死者やものの怪を悼む物語の後、ひっそりと舞台に佇む「老松」の絵すら何か余韻を税込み、吐き出し、息をしているかのような、神秘的な美しさにぼくは魅了されてしまいます。
夜の寄席のお目当ては林家正雀師匠が林家彦六から直伝の怪談咄の落語を長講で行うという。その前に江戸家猫八師匠の物まねも見ました。今の猫八師匠は三代目で一代目、二代目の猫八の顔を思い浮かべてしまい、過ぎ去った自らの齢もなんだか思い浮かべてしまいつつ、動物の鳴き真似とそのはなしっぷりに笑ってしまいます。そして、ついに主任、林家正雀師匠は「真景累ヶ淵」を話してくれましたが、末廣亭は日本で一番古い現存している寄席小屋で、本当に幽霊が見えてしまうのじゃないかと、ぼくは辺りを見回してしまいます。怖いよ。話の後、彦六は怪談の後はいつも舞いを踊っていたと正雀師匠も舞いを披露。その舞いは邪気を払うというより、無念を呑んで死んだ女たちへのせめてもの慰めの愛のようなものの気がして、咄家さんのやさしさを感じてしまいました。


ウィリアム・ワイラー監督の『ローマの休日』を見ました。テレビ画面のサイズでは何度か見たことはあったけれど、初めて映画館で見ました。
宮殿のような宿泊しているところからオードリー・ヘプバーン演ずるアン王女がお酒の配達の小さなトラックに忍び込んで抜け出して、ローマの街を走る車の荷台からひょこっと顔をあげて、あたりの様子を見るシーンから、オードリー・ヘプバーンの可愛いまぶしさがこれでもかこれでもかとスパークしまくります。アン王女とグレゴリー・ペック演ずる新聞記者の関係のあれこれなんざ、ゲスの極みのかんぐりで、それぞれの見た人の思惑にまかせときゃいいんです。
脚本も完璧に素晴らしくて、これを書いたダルトン・トランボは、当時、レッドパージ(共産主義、社会主義者への弾圧)でハリウッドから追放されているのを同じく脚本家のイアン・マクレラン・ハンターが手を貸して、初めのスタートロールでは「イアン・マクレラン・ハンター」の名がクレジットされているという逸話も残っております。後にイアン・マクレラン・ハンターもパージされるのだけれども…。
見た人の心と想像力をくすぐるいろんな仕掛けもあって、そこはこの名作を見てのお楽しみで、今、見ると、エディ・アルバート演ずる新聞記者の相棒のカメラマンもいいですな。(峰不二子とアン王女はまったく違いますが)この新聞記者と報道カメラマンの二人組はルパン三世と次元大介のようです。
それから、この『ローマの休日』を見ながら、日本の皇室の方や皇室だった方、愛子様、眞子様、佳子様がこれをご覧になられたら、どのような感想をお持ちになるのでしょうか? そんなことも気になりながら『ローマの休日』を見てしまう齢にぼくもなってしまいました。
この映画は1953年の作品ですが、実はこの年、日米映画決戦が開かれていたらしいのです。アメリカ代表がこの『ローマの休日』で日本代表が小津安二郎監督の『東京物語』だったらしいが、その勝ち負けの行方は、いまだにようとして知ることはできないらしいのです。
「ローマの休日 製作70周年 4Kレストア版」特設サイト


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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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