えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
横浜美術館の「マックス・エルンスト展」に行ってきた。マックス・エルンストは前世紀の前半に活躍したシュールリアリズム絵画の最も有名は一人です。一枚、とても気になり、惹かれる絵があった。それは「自由の賞賛」という絵で、暗い森に真っ白い鳩が光りながら、翼を休めているというもの。エルンストの絵にたくさんの鳥をモチーフにしたものがあるのだけど、ウィキペディアによると、高校生時代(1906年)、愛鳥であるインコのホルネボムが死んだ次の朝に、母親が妹ロニを出産した、少年マックスは妹が鳥の精気を吸収してこの世に生を受けたと信じ、それ以後鳥のイメージが彼の重要なモチーフとなった、ということだ。この「自由の賞賛」の絵の数年後、エルンストの絵は、軽く、明るく、自由になり、ユーモアすら満ちている、そんな自由を謳歌するような絵になるのを、ぼくはこの展覧会で見つけたのだった。その謳歌するような自由をエルンストが絵を描いて見つけたように、ぼくは歌を歌って見つけたい、とふと思った。
見そこねていた映画をDVDで借りて見た。クリント・イーストウッド監督の「インビクタス‐負けざる者たち‐」です。アパルトヘイト廃止後の初代大統領となったネルソン・マンデーラのラグビー・ワールド・カップにかける実話のエピソードを通して、南アフリカの未来、それは、ぼくたちの希望でもあるような何かでもあるのだが、そのような何かを見通す感動の物語でした。やはり、ネルソン・マンデーラって、偉大な人なのです。あと、マット・デーモン演じるタグビー選手、フランソワ・ピナールも讃えたい。ぼくが、ある歌で、ガンジーが行進しているよ、キング牧師も行進しているよ、ネルソン・マンデーラも行進しているよ、と歌ったのは、きっと正しかったのだ、と思う。
おはよう。お休みの土曜の朝にぴったりの音楽を聴いています。これは名盤だと思う。Taj Mahalの"Giant Step/De Ole Folks At Home"。Taj Mahalって名前も変わっていて、そこから演奏される音楽も、何かちょっと風変わりというか、根底はブルースなんだけど、ジャンルを少しだけ、あるいは大いにはみ出してしまうようなところが、魅力的。アナログレコードのころはこのアルバムは2枚組になっていて、1枚目の"Giant Step"はバンド編成で、2枚目の"De Ole Folks At Home"は古いアメリカの土臭い音楽の弾き語りで、その2枚目にはTajのハンド・クラップの伴奏だけで歌われる歌もある。バンド編成の方はあのかっこいいインディアン・ギタリストのJesse Ed Davisが参加。Jesseは確か、Tajのことを自身のアルバム"Ululu"で"My Captain"と尊敬を込めて歌っていたな。"Giant Step"に入っている、なんとも思いやりのあふれた曲"Take A Giant Step"を意訳してみます。
誰かを好きになって、うまくいかなくて、落ちこんで、迷子になって
悲しみがきみの心を凍らせて
そんな時はぼくがきみの心を直してあげよう
子どものころを思い出してみなよ
目覚めたら、朝がほほ笑んでいて
そんな時、もう一度、あのころの気持ちを思い出すのさ
思い出す過去なんて本当はなにもないんだよ
また生きようとして、ついには愛そうとする
きのうをゴミ箱に捨てて、ぼくと歩きはじめようよ
きみの悩む心から、大きな一歩を踏み出すのさ
きみは不信の目でぼくを見つめている
きみは信じられるものなんて何もないとつぶやく
けれど、本当は何もきみを傷つけたりはしない
ひとりぼっちて部屋にすわりこんじゃいけない
憂鬱な過去ばかり思い出しても
それはきみの持ちものなんかじゃない
ぼくと歩いてごらん、人生がみどりにあふれるみたいなところに連れていってあげるよ
毎日がんばれば、ちょっとづつ見えてくる
きのうをゴミ箱に捨てて、ぼくと歩きはじめようよ
きみの悩む心から、大きな一歩を踏み出すのさ
内田樹さんと中沢新一さんの対談集「日本の文脈」を読んだ。お二人とも日本大好き人間なんだね。それはどういう日本かというと、例えば、軍国主義とは対極にあるような日本なのかな。柳田国男の、折口信夫の、保田与重郎の日本。宮沢賢治の、出口王仁三郎の日本。ぼくも日本は大好きです。神社とか仏閣とか好きだし、日本にはたくさんの居酒屋や温泉もある。内田さんと中沢さんのような人たちが庶民の実感と接合して新しい日本が生まれるのではないか、とこの本を読みながら、夢をたくましくする。
さて、二人が共通に尊敬するフランスの思想家がいて、クロード・レヴィ・ストロース。レヴィ・ストロースの本は読んだことがないけれど、「悲しき熱帯」にはどんなことが書いてあるのだろう? あと、内田さんが長年、修行しているという合気道を習ってみたくなった。能という伝統芸能を見たくなった。
この前オーティス・レディングのファースト・アルバムのことを書いたのだから、今夜はウィルソン・ピケットのファースト・アルバムについて書いてみたいと思います。畢竟、オーティスと比べてしまうのだけど、ウィルソン・ピケットに比べ、オーティスの歌が、何ともマイルドでソフトケイトされた歌のように聞こえてくるのだった。逆に言えば、ピケットの歌声はあまりに無骨で熱情的で、どこまでも行ってしまう世俗のゴスペル歌手のようでもあり、しかも自作の歌はとてもロマンチックなのです。たくさんの歌が、ロック・アーティストにカバーされていて、オーティスと並ぶ1960年代のソウルのキングだったことはやはり間違いない。そんな数々のヒット曲の中からこのアルバムの1曲目"In The Midnight Hour"を意訳してみます。
「真夜中の時間まで待っているよ
そのころ、おれの愛が転がり始めるはずさ
真夜中の時間まで待っているよ
そのころ誰もいなくなってしまう
きみを誘って手をにぎりしめ
どんなことだって話してあげよう
あの真夜中の時間に
そう、このぼくが
このぼくが
もう一度今すぐ言わせておくれ
星が輝きはじめるまで待っているよ
きみの瞳にキラキラ星を見るのさ
真夜中の時間まで待っているよ
おれの愛が輝くころ
きみだけがぼくを本当に愛してくれる
そんな女の子さ
真夜中の時間に
もう一度演奏してくれ
真夜中の時間まで待っているよ
そのころ、おれの愛が転がり始めるはずさ
真夜中の時間まで待っているよ
おれの愛が輝くころ
きみとぼく
きみとぼくだけさ
きみとぼく以外に誰もいなくなって
ぼくはこの腕にきみを抱きしめる」
それで、このアルバムを聴き進め、5曲目の"I Found A Love"を聴くころには嬉しくて、悶絶しているわけよ。
本屋で昔読んだことのあるこの本を立ち読みしていると、あれっ、こんなこと書いてあったけな、と思って、つい買ってしまい、一気に読んでしまった忌野清志郎の「瀕死の双六問屋」。その話とはバスでミシシッピのクラークデールに向けて、旅をする話で、アメリカを西から東に横断旅しようというあの娘に、クラークスデールは行った方がいいよ、とぼくが教えたあげたのも、思い出したのだった。
さて、本の帯には「最終話を含む幻の原稿18話分を収録」とあり、そうだったのかと合点した。この本は、清志郎がメジャーを干されて、インディーズというより、自主制作でアルバムを連発し、日本中をライブツアーでドサ回りしていた、そんな時に雑誌に連載されていたもので、ブルースマン、忌野清志郎がそのまま表れている。
おれも最近、自分がブルースマンのような気がして、そのブルースってのは、苦悩の音楽で、なぜそのような苦悩の音楽によって幸せを感じたり、救われたするのだろう、と思いめぐらすと、その答えも、この本には書かれているような気がする。「これだけは言っておく。ブルースを忘れないほうがいい」と言う清志さんの言葉に絶対的に共感し、忌野巨匠のぼくの大好きな名盤「メンフィス」を聴きたくなるのです。
ぼくといえば、ぼくのブルースマンであるぼく自身が、今度の土曜日(3月31日)の夜、小田急相模原のエルトピート(http://www.el-topito.com/)で歌っています。みなさん、ぼくのブルースを聴きにきてください。そして、空の向こうで歌を歌っているあの人と唱和しつつ、もう一度、言おう。
「これだけは言っておく。ブルースを忘れないほうがいい」