えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
ついさっきの土曜日から日曜にかけて、「禅は、今ここ。」という本を読んだよ。1960年にカリフォルニアから全米に禅の精神を広めた曹洞宗の老師、鈴木俊隆さんが弟子のアメリカ人たちに言った言葉、その思い出を集めたとっても魅了的な本でした。
そう、1960年代のカリフォルニアのヒッピーやカウンター・カルチャーの深奥にはこの鈴木俊隆という一人の禅師がいたらしいのです。それで、ぼくは、こんなの読んだら、今日はいつだってどうにでもなるさと、安心してしまったのか、夏風邪をひいてしまった。先週は働きすぎだったな、と思うけれど、もう戻ってはこないのさ。いくつもの美しい言葉がこの本にはあるのだけど、ぼくの今の心に一等響いこんな挿話をたった一つだけ引いておやすみなさいZZZzzz.....
「接心の間に鈴木老師の独参がありました。私は迷い、人生の居場所を失っていると、感じていました。大いなる心(ビッグマインド)も、同じく闇に迷うのかどうか、私は老師に尋ねました。 老師はおっしゃいました。「いいえ、闇の中に迷わず、闇の中で働くのです」老師はそれを千手観音のようだと言って、手を動かし説明されました。その瞬間、千手観音をこの世に出現させたのです」
そう、1960年代のカリフォルニアのヒッピーやカウンター・カルチャーの深奥にはこの鈴木俊隆という一人の禅師がいたらしいのです。それで、ぼくは、こんなの読んだら、今日はいつだってどうにでもなるさと、安心してしまったのか、夏風邪をひいてしまった。先週は働きすぎだったな、と思うけれど、もう戻ってはこないのさ。いくつもの美しい言葉がこの本にはあるのだけど、ぼくの今の心に一等響いこんな挿話をたった一つだけ引いておやすみなさいZZZzzz.....
「接心の間に鈴木老師の独参がありました。私は迷い、人生の居場所を失っていると、感じていました。大いなる心(ビッグマインド)も、同じく闇に迷うのかどうか、私は老師に尋ねました。 老師はおっしゃいました。「いいえ、闇の中に迷わず、闇の中で働くのです」老師はそれを千手観音のようだと言って、手を動かし説明されました。その瞬間、千手観音をこの世に出現させたのです」
ドイツのジョシュア・オッペンハイマー監督の「アクト・オブ・キリング」は衝撃的な内容で、近代から現代の人間のしてきたことを真摯の問うような映画だったのだけど、その続編「ルック・オブ・サイレンス」が公開されたと聞き、渋谷のイメージ・フォーラムに見に行く。さらに深堀りされた重たい内容に言葉をなくす。これはインドネシア一国のものでもなく、しかも、過去の話ではないように思うのは、例えば、今のアラブとも呼ばれる中東で何が起きているのかを想像してみれば分かるでしょう。この重たい問いの映画を見て、きれいごとのように聞こえててしまうことを承知で、あの世で裁かれるというのは一つの真実であるかもしれないけれど、ぼくは、ぼくたちがこの地上に楽園を築けるように、少しづでもいいから、努力すべきではないだろうか、とぼくは思いました。
http://www.los-movie.com
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開成町が紫陽花の里だという噂を聞いて、この前、散歩をしに行きました。いろんな花があって、この日は雨ではなく、晴れたり曇ったりだったけれど、紫陽花みたく日かげや雨のしずくで輝く花もあるのですぞ。それぞれが、みんな輝いています。そして、梅雨のあいまにのぞいた青空に向日葵の季節がもうそこまで来ている予感。
つづきをごらんください
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村上龍さんの「ラストワルツ」を一気に読了した。村上龍って偏見のない抜群の知性でありながら、欲望やらの力も認めているっていうか、そこらへんの両義的、多義的なところも好き。昔、村上龍さんが自分の小説を定義している文があって、それは「答え」や「解」ではなく、解けなかった、解けていない「疑問符」なのだといっていて、なるほどと思った。
それから、今回、このエッセイを読んでいて龍さんってハード・ボイルドだな、となんとなく思った。情緒を認めつつも、それを一旦、わきに置いておいて、観察しつづけるようなところが、かっこよく、しかも、ニヒリズムに陥るのを注意深く避け、考えつづける。これは、もしかしてハードボイルドではないだろうか。
さて、この本の題名ともなったエンゲルベルト・フンパーティングの「ラストワルツ」のムービーを紹介します。村上さんが今、書いている小説は「失われたもの」、「失われていて、もう二度と戻ってこないもの」、「失われているもの」なのだそうな。「限るなく透明に近いブルー」からいつの間に遠いところまで来たんだなー。ぼくはそれをノスタルジーなどと呼んでいるのだけど、みなさんもこれを見て、ためいきをついて、おやすみなさいZZZzzz.....
それから、今回、このエッセイを読んでいて龍さんってハード・ボイルドだな、となんとなく思った。情緒を認めつつも、それを一旦、わきに置いておいて、観察しつづけるようなところが、かっこよく、しかも、ニヒリズムに陥るのを注意深く避け、考えつづける。これは、もしかしてハードボイルドではないだろうか。
さて、この本の題名ともなったエンゲルベルト・フンパーティングの「ラストワルツ」のムービーを紹介します。村上さんが今、書いている小説は「失われたもの」、「失われていて、もう二度と戻ってこないもの」、「失われているもの」なのだそうな。「限るなく透明に近いブルー」からいつの間に遠いところまで来たんだなー。ぼくはそれをノスタルジーなどと呼んでいるのだけど、みなさんもこれを見て、ためいきをついて、おやすみなさいZZZzzz.....
東京都庭園美術館で「マスク展」を見る。東京都庭園美術館は旧朝香宮邸でもあり、皇族の邸宅でもあったところ。そのいくつものアールデコ様式の部屋にいくつもの世界各国の仮面、マスクが並べられていて、とても雰囲気があります。この展覧会を手がけたキュレーターの手腕はさすがです。
閑散としているんかと思いきや、けっこう混んでいて、日本の能面もしっかり最後の間に飾られておりました。その能面は東の果ての島で究極の洗練にいたったようなのです。
ところで、仮面とかマスクって何だろう。いろんな仮面を見ていると、霊とか精霊みたいなものが世界には満ち溢れていて、そのもうひとつの仮の姿が仮面とかマスクに表されているようにも感じたのです。
宮澤賢治の「鹿踊りのはじまり」とか、もう一度、読みたくなりました。沖縄竹富島の種子取祭とか秋田のなまはげとか、探せばいろいろありそうで、この島国にも精霊は満ちているのかもしれません。その精霊を感じたく、たくさんの人がこの展覧会に足をはこんでいるのかしら。
http://www.teien-art-museum.ne.jp
閑散としているんかと思いきや、けっこう混んでいて、日本の能面もしっかり最後の間に飾られておりました。その能面は東の果ての島で究極の洗練にいたったようなのです。
ところで、仮面とかマスクって何だろう。いろんな仮面を見ていると、霊とか精霊みたいなものが世界には満ち溢れていて、そのもうひとつの仮の姿が仮面とかマスクに表されているようにも感じたのです。
宮澤賢治の「鹿踊りのはじまり」とか、もう一度、読みたくなりました。沖縄竹富島の種子取祭とか秋田のなまはげとか、探せばいろいろありそうで、この島国にも精霊は満ちているのかもしれません。その精霊を感じたく、たくさんの人がこの展覧会に足をはこんでいるのかしら。
http://www.teien-art-museum.ne.jp