えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
TOHOシネマズで「午前十時の映画祭」というのをやっていて、昔懐かしの映画が大きなスクリーンにかかるんです。たまに見に行きます。
今日はTOHOシネマズららぽーと横浜にスティーヴン・スピルバーグ監督の「E.T.」を見ました。何度か、テレビとかレンタル・ビデオで見ているのだけど、大きいスクリーンは格別で、とてもよかったです。特にあのETをカゴに乗せて自転車で空を飛ぶシーン、最高だわ。自転車って、神話と夢の世界からおりたってきたような最高の乗り物ですね。映画の面白さと感動のど真ん中をゆくような映画で、「E.T.」は何度、見てもすばらしい。
この「午前十時の映画祭」、来年の3月で終わってしまうそう。とても残念です。11月の「サウンド・オブ・ミュージック」は絶対、見に行くぞ。
「E.T.」上映作品詳細 - 午前十時の映画祭10 デジタルで甦る永遠の名作
(「無言館と傷ついた画布のドーム」に続いて)さらに、信州を旅しました。温泉とか寺社めぐりの旅。
たどりついたは善光寺、牛にひかれて善光寺。牛にひかれて善光寺とは、長野の善光寺近くにいた欲深い老婆が、さらしていた布を角に引っ掛けて逃げた隣家の牛を追い、知らずに善光寺へ行き信心を起こしたという言い伝えからだそう。
善光寺の本堂には、二体の仏像がおはしまして、にぎわう衆生をただ見ているかのよう。昔、読んだ武田泰淳の小説「快楽」は「快楽」と書いて「けらく」と読むのだけど、その小説の主人公の僧侶は、仏陀はただ見ているだけで、なぜ、こんな苦しみの中にいる人々を救ってくださらないのかと思い悩んでいたことを思い出す。ぼくは仏の像を見るたびにすべてを見ている、何もかも見られているのだとも思い、安堵してしまう。
その本堂に地元の長野西高校の書道部の高校生が大書した特大の書が飾られていた。
「新時代の幕開け
平和な世の中を
私たちが造っていく
令和
人に
寄り添いわかちあい
世界中で愛の花よ
咲き誇れ!
令和元年五月一日
長野西高校書道部」
あー、彼らはぼくやきみが去ったあとも生きていく新しい人たちなのだと思う。そんな人たちが希望を胸に高らかに立ちのぼってくる姿を見ている気がして、彼らに未来を託して何の疑いもないと思う。
たどりついたは善光寺、牛にひかれて善光寺。牛にひかれて善光寺とは、長野の善光寺近くにいた欲深い老婆が、さらしていた布を角に引っ掛けて逃げた隣家の牛を追い、知らずに善光寺へ行き信心を起こしたという言い伝えからだそう。
善光寺の本堂には、二体の仏像がおはしまして、にぎわう衆生をただ見ているかのよう。昔、読んだ武田泰淳の小説「快楽」は「快楽」と書いて「けらく」と読むのだけど、その小説の主人公の僧侶は、仏陀はただ見ているだけで、なぜ、こんな苦しみの中にいる人々を救ってくださらないのかと思い悩んでいたことを思い出す。ぼくは仏の像を見るたびにすべてを見ている、何もかも見られているのだとも思い、安堵してしまう。
その本堂に地元の長野西高校の書道部の高校生が大書した特大の書が飾られていた。
「新時代の幕開け
平和な世の中を
私たちが造っていく
令和
人に
寄り添いわかちあい
世界中で愛の花よ
咲き誇れ!
令和元年五月一日
長野西高校書道部」
あー、彼らはぼくやきみが去ったあとも生きていく新しい人たちなのだと思う。そんな人たちが希望を胸に高らかに立ちのぼってくる姿を見ている気がして、彼らに未来を託して何の疑いもないと思う。
信州に小さな旅に出ました。
まず向かったところは、前の大戦で亡くなった画学生の絵を展示する「無言館」。来ると姉妹館である第二の展示のための「傷ついた画布のドーム」もたくさんの人の寄付によって新たにそこにできていた。
昭和二十年で時が止まったかのような二つの美術館。人もまばらな静かな美術館で絵を見ていると、古い時代の服を着た快活な若者がぼくに明るい声でを話しかけてくる。
「あの肩のあたりがうまくいっていないんですけどね」
ぼくは答える。
「そんなことはないさ。すごく良く描けているよ。ぼくは今、感動しているところさ」
「いや、あの肩のところだけは描き直したいな。今度、機会があったら、描き直しますよ。その時は、また見に来てください」
「そうだね、また是非、見に来るよ」
ふと、声のした方を見ると、誰もいない。
ぼくは美術館から外に出て、森の中の木立の道を歩きながら、嗚咽し、泣き始めていた。
あの青年との約束を守るためにも、ぼくは「無言館」と「傷ついた画布のドーム」にまたいつか来るでしょう。
改元で「平成」から「令和」に変わるという。なぜだか、とても憂鬱だ。どうしてだろう? ぼくは、儀式を終えての前の天皇陛下のあの寂しげなお顔が妙に気になり、思案してしまう。
前の天皇の最後のお言葉で、たかが時の総理大臣に敬語を使っていることが、驚きで、その当の悪しき総理大臣の踝から、東アジアのすべてを覆う邪悪で暗く不穏な雲が、近い未来に広がるようで、ぼくの夢想めいたものは、ぼくをたじろかせ、気を滅入らせている。
ぼくは古い日本が好きだと思うけれど、美しい伝統とは何だろう? それは、あの浮かれ騒ぎにはないようなのだけれど。
前の天皇の最後のお言葉で、たかが時の総理大臣に敬語を使っていることが、驚きで、その当の悪しき総理大臣の踝から、東アジアのすべてを覆う邪悪で暗く不穏な雲が、近い未来に広がるようで、ぼくの夢想めいたものは、ぼくをたじろかせ、気を滅入らせている。
ぼくは古い日本が好きだと思うけれど、美しい伝統とは何だろう? それは、あの浮かれ騒ぎにはないようなのだけれど。
"Me Too"、そして"Us Too"。すばらしいと思い、エールを送ろうと、パンクロックで燃えていたロンドン、イギリスで40年以上前に爆発的にヒットしていたにTom Robinson Bandの"Right On Sister"を意訳してみました。
♪♪♪
彼女は正しい だからシスターに権利を
彼女はなにが好きかわかっている
泳ぐ魚に自転車が必要なように
あんたやおれが変わることを必要としているのさ
ここは女性参政権運動が始まった市で
何も彼女を悩ませない
女たちの革命だ
こえてゆけ こえてゆけ
彼女を見てみろよ
明晰な頭脳を持ち
いろんなやり方で
みんなといっしょに手を合わせようとする
女たちの軍隊が入場してくるぜ
弱さも強さに変えて
女たちに力を
権利を 権利を
シスターに権利を
シスターに権利を♪♪♪
パンクロックのムーブメントってすごいな。みんな、この歌を合唱していたのさ。そして、今でもだよ。
古民家nicoichiの花咲く桜の樹の下で歌いました。木の精が死者たちとともに現れて、ぼくはとぼくのまわりのみんなが祝福を受けていたような気もしていました。
能の舞台のような、大野一雄の舞踏のような、生だけではなく、死があって生があるような、高校生のころ読んだ梶井基次郎の「桜の樹の下には」を思い出してもいたのです。
桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺(おれ)はあの美しさが信じられないので、この二、三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
どうして俺が毎晩家に帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選(よ)りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀(かみそり)の刃なんぞが、千里眼のように思い浮んで来るのか―お前はそれがわからないと云ったが―そして俺にもやはりそれがわからないのだが―それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。
一体どんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気(ふんいき)を撒(ま)き散らすものだ。それは、よく廻(まわ)った独楽(こま)が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱(しゃくねつ)した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲(う)たずにはおかない、不思議な生き生きとした、美しさだ。
しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂欝(ゆううつ)になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。
お前、この爛漫(らんまん)と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像して見るがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがお前には納得が行くだろう。
馬のような屍体、犬猫(いぬねこ)のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛(ふらん)して蛆(うじ)が湧(わ)き、たまらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪(たんらん)な蛸(たこ)のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて、その液体を吸っている。
何があんな花弁を作り、何があんな蕋(ずい)を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。
―お前は何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。俺はいまようやく瞳(ひとみ)を据(す)えて桜の花が見られるようになったのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。
二、三日前、俺はここの渓(たに)へ下りて、石の上を伝い歩きしていた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生れて来て、渓の空めがけて舞い上ってゆくのが見えた。お前も知っているとおり、彼等はそこで美しい結婚をするのだ。しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰(でく)わした。それは渓の水が乾(かわ)いた磧(かわら)へ、小さい水溜(みずた)まりを残している。その水のなかだった。思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。お前はそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間(すきま)なく水の面を被(おお)っている、彼らのかさなりあった翅(はね)が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終った彼らの墓場だったのだ。
俺はそれを見たとき、胸が衝(つ)かれるような気がした。墓場を発(あば)いて屍体を嗜(たしな)む変質者のような惨忍(ざんにん)なよろこびを俺は味わった。
この渓間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯(うぐいす)や四十雀(しじゅうから)も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺に心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂欝に渇(かわ)いている。俺の心の憂欝が完成するときにばかり、俺の心は和(なご)んで来る。
―お前は腋(わき)の下を拭(ふ)いているね。冷や汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようなものだと思ってごらん。それで俺たちの憂欝は完成するのだ。
ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
一体どこから浮んで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑(の)めそうな気がする。
能の舞台のような、大野一雄の舞踏のような、生だけではなく、死があって生があるような、高校生のころ読んだ梶井基次郎の「桜の樹の下には」を思い出してもいたのです。
桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺(おれ)はあの美しさが信じられないので、この二、三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
どうして俺が毎晩家に帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選(よ)りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀(かみそり)の刃なんぞが、千里眼のように思い浮んで来るのか―お前はそれがわからないと云ったが―そして俺にもやはりそれがわからないのだが―それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。
一体どんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気(ふんいき)を撒(ま)き散らすものだ。それは、よく廻(まわ)った独楽(こま)が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱(しゃくねつ)した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲(う)たずにはおかない、不思議な生き生きとした、美しさだ。
しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂欝(ゆううつ)になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。
お前、この爛漫(らんまん)と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像して見るがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがお前には納得が行くだろう。
馬のような屍体、犬猫(いぬねこ)のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛(ふらん)して蛆(うじ)が湧(わ)き、たまらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪(たんらん)な蛸(たこ)のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて、その液体を吸っている。
何があんな花弁を作り、何があんな蕋(ずい)を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。
―お前は何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。俺はいまようやく瞳(ひとみ)を据(す)えて桜の花が見られるようになったのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。
二、三日前、俺はここの渓(たに)へ下りて、石の上を伝い歩きしていた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生れて来て、渓の空めがけて舞い上ってゆくのが見えた。お前も知っているとおり、彼等はそこで美しい結婚をするのだ。しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰(でく)わした。それは渓の水が乾(かわ)いた磧(かわら)へ、小さい水溜(みずた)まりを残している。その水のなかだった。思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。お前はそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間(すきま)なく水の面を被(おお)っている、彼らのかさなりあった翅(はね)が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終った彼らの墓場だったのだ。
俺はそれを見たとき、胸が衝(つ)かれるような気がした。墓場を発(あば)いて屍体を嗜(たしな)む変質者のような惨忍(ざんにん)なよろこびを俺は味わった。
この渓間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯(うぐいす)や四十雀(しじゅうから)も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺に心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂欝に渇(かわ)いている。俺の心の憂欝が完成するときにばかり、俺の心は和(なご)んで来る。
―お前は腋(わき)の下を拭(ふ)いているね。冷や汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようなものだと思ってごらん。それで俺たちの憂欝は完成するのだ。
ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
一体どこから浮んで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑(の)めそうな気がする。
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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