えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
Dr. JohnことMac Rebennackが逝ってしまった。アメリカのというか、世界の音楽シーンにぽっかりと空白の穴が空いている、そこにあったはずの地球の大事な重力の一つが無くなってしまったかのような、なんという寂しさだろうか。
ぼくがDr. Johnのコンサートに行ったのは二度ぐらいだろうか、たしか、そこは青山のブルーノート・トーキョーと渋谷のクアトロ。二度とも、ステージにはスタンウェイのグランド・ピアノが置かれ、ハモンド社製の電気オルガンとレズリー・スピーカー。クアトロで前座をしたBO GUMBOSのピアニスト、Dr.kyOnのインタビューによれば、そのピアノはDr. Johnの持ち込みのピアノで、kyOnはステージでそのピアノを使わせてもらえなかったそうだ。ビルの最上階のロフトのようなところにあるクアトロのステージにどのようにそのピアノをセットしたのだろうか? そのピアノは紫のガウンがかかり、髑髏が置かれていた。Dr. Johnがその髑髏について、彼の自伝「フードゥー・ムーンの下で("Under a Hoodoo Moon: The Life of Dr. John the Night Tripper")」どうしてあんなものをいつもピアノに置いているのかということについて、ピアノに髑髏をおくことは重要だ、ニューオーリンズの伝統だよ、おもしろいだろう、おれのやっている音楽はただの芸術だけというものでもない、見世物でもあるし、エンターテイメントでもあり、それはとても重要なことで、ピアノに髑髏を置くのさ、と言っていた。かっこいい。
同じく「フードゥー・ムーンの下で」によれば、ティーン・エイジャーのころからリズム・アンド・ブルースの演奏されるレコーディング・スタジオに入り浸り、そこでギターを弾き、日銭を稼いでいた。友だちの喧嘩の仲裁に入り左の薬指に怪我をして、ギタリストの道を断念して、ピアニストに転向する。そのかばった友だちがニューオーリンズにこのピアニストありといわれたRonnie Barronで、若いまだ"Dr. John"と名のっていないMac Rebennackにピアノを教えたのが、天才、James Booker。そんな若いころ、BeatlesやRolling Stonesがイギリスで出てきて、Dr. Johnはすでにニューオーリンズのプロのミュージシャンで、Rolling Stonesは自分たちの真似をしていると思ったそうだ。Beatlesについてはいい曲、書くなと思ったそう。ちなみに、ぼくの見たコンサートでは、ピアノ以外にもギターを弾きながら歌っている曲もあったように記憶している。ティーンエイジャーでスタジオでギターを弾いていたころは黒人音楽家協会に属していた唯一の白人でもあった。
伝説の写真家、Robert Flanktの映画「キャンディ・マウンテン(CANDY MOUNTAIN)」とかの脇役での悪態をつく嫌なじじい役のDr. Johnもやけにリアルでよかったなぁ。
ぼくの見たコンサートではまったく笑わない人で、たまにニヤリと微笑んでいた。Dr. JohnことMac Rebennackはぼくにとって、音楽家を超えた、映画俳優Dennis Hopperとならぶ、もっともかっこいいあこがれのアメリカ人だった。
今、ぼくはアルバム"Dr. John Plays Mac Rebennack"を聴きながら献杯しています。
藤平信一さんの著した「心を静める」を読む。
藤平信一さんは心身統一合氣道会長であらせられ、合氣道の先生でもあるのだから、むしろ、藤平信一さんではなく藤平信一先生とお呼びしたほうがよいのかしら? 藤平信一先生の書かれた合氣道を通したビジネスマンへの啓発本のような内容でした。
この本によるいくつかの合氣道の心をご紹介すれば、合氣道には「心身一如」という言葉があるらしい。心が初めでも、身体が初めでもなく、心が体に働きかけ、体が心に働きかけ、それは一つということらしい。そして、「武道」とは、「合氣道」も「武道」なのだけれど、それは、「戈を止める道(ほこをとどめるみち)」といこと。戈とは武器のことで、「武道」は「争わない道」、「平和の道」なのだそう。「争わない道」、「平和の道」はとても長い道だけど、きっと、いい道ではないかしらなどと思いました。
藤平信一さんは心身統一合氣道会長であらせられ、合氣道の先生でもあるのだから、むしろ、藤平信一さんではなく藤平信一先生とお呼びしたほうがよいのかしら? 藤平信一先生の書かれた合氣道を通したビジネスマンへの啓発本のような内容でした。
この本によるいくつかの合氣道の心をご紹介すれば、合氣道には「心身一如」という言葉があるらしい。心が初めでも、身体が初めでもなく、心が体に働きかけ、体が心に働きかけ、それは一つということらしい。そして、「武道」とは、「合氣道」も「武道」なのだけれど、それは、「戈を止める道(ほこをとどめるみち)」といこと。戈とは武器のことで、「武道」は「争わない道」、「平和の道」なのだそう。「争わない道」、「平和の道」はとても長い道だけど、きっと、いい道ではないかしらなどと思いました。
柄谷行人さんの著した『世界史の実験』を読む。柄谷行人さんの柳田國男論。柄谷は評論を始めた初期から柳田を論じていたと思うけれど、マルクスやフロイト、夏目漱石、坂口安吾を論じていた柄谷行人が、柳田國男の祖霊論について書いており、本居宣長の古道についても、必ずしも批判的ではなく言及していることに驚く。ただし、国家神道と対峙した柳田國男は見たこともない新しい社会の実験を見ていたとする。柳田は九段の坂に鎮座する神社には決して収斂されることのない霊を見ていた。柄谷さんの引用した柳田國男の文をいくつか引用します。
「我々の親たちの信仰に従えば、神輿の中には神様が乗っておられる。これは事実っであって、詩でもなく空想でもない」
「空と海とはただ一続きの広い通路であり、霊はその間を自由に去来したのでもあろうが、それでもなおこの国土を離れ去って、遠く渡って行こうという蓬莱の島を、まだ我々はよそにもってはいなかった。一言葉でいうならば、それはどこまでもこの国を愛していたからであろうと思う」
「現在もほぼ古い形のままで、霊はこの国土の中に相隣して止住し、徐々としてこの国の神となろうとしていることを信ずる者が、たしかに民間にはあるのである。そうして今やこの事実を、単なる風説としてではなく、もっと明瞭に意識しなければならぬ時代が来ているのである。信じる信じないとは人々の自由であるが、この事実を知るというまでは我々の役目である」
柳田によれば、人は死んで御霊になるという。死んでまもなくは御霊は「荒みたま」と呼ばれ、子孫の供養は祀りをうけ浄化され、御霊は、一つ御霊に溶け込み、神となり、その神は村の山の高いところに昇り、子孫の繁栄を見守るという。
このようなことが書かれ、「第二部 山人から見る世界史」に続き、さらなる続きのある予感。続く柄谷行人の柳田國男論を楽しみに待ちます。
『世界史の実験』(岩波新書) - 週刊読書人
「我々の親たちの信仰に従えば、神輿の中には神様が乗っておられる。これは事実っであって、詩でもなく空想でもない」
「空と海とはただ一続きの広い通路であり、霊はその間を自由に去来したのでもあろうが、それでもなおこの国土を離れ去って、遠く渡って行こうという蓬莱の島を、まだ我々はよそにもってはいなかった。一言葉でいうならば、それはどこまでもこの国を愛していたからであろうと思う」
「現在もほぼ古い形のままで、霊はこの国土の中に相隣して止住し、徐々としてこの国の神となろうとしていることを信ずる者が、たしかに民間にはあるのである。そうして今やこの事実を、単なる風説としてではなく、もっと明瞭に意識しなければならぬ時代が来ているのである。信じる信じないとは人々の自由であるが、この事実を知るというまでは我々の役目である」
柳田によれば、人は死んで御霊になるという。死んでまもなくは御霊は「荒みたま」と呼ばれ、子孫の供養は祀りをうけ浄化され、御霊は、一つ御霊に溶け込み、神となり、その神は村の山の高いところに昇り、子孫の繁栄を見守るという。
このようなことが書かれ、「第二部 山人から見る世界史」に続き、さらなる続きのある予感。続く柄谷行人の柳田國男論を楽しみに待ちます。
『世界史の実験』(岩波新書) - 週刊読書人
年に数曲、オリジナルの歌を作って、いつものようにどこかで歌います。というか、作るのではなくて、それは思いつくもので、ぼくはただの媒介で、空から振ってきたり、大地から湧いて出てくるものかもしれない。近ごろ、「悲しみのない星」という歌が降ってきました。どこかでまた歌うのです。こんな詞。
♪♪♪
悲しみのない星ににつれていってよ
あの娘はいつでもそういうから
おれたち二人で旅に出たのさ
悲しみのない星につれていってよ
あの娘はそんなおかしなことをいう
だから、おれたち二人、旅に出のさ
あーあ、さみしい町ばかり
あーあ、悲しい町ばかり
今夜も憎しみをだれかがあおっている
くたたになったいつもの帰り道
あの娘のことばかりが頭にちらついて
悲しみのない星につれていってよ
あの娘はそんなおかしなことをいう
だから、おれたち二人、旅に出のさ
あーあ、さみしい町ばかり
あーあ、悲しい町ばかり
(間奏)
あーあ、さみしい町ばかり
あーあ、悲しい町ばかり
この星の上、この空の下
この星の上、この空の下
もう少しだけ旅をつづけます
悲しみのない星につれていってよ
差別のない星につれていってよ
戦争のない星につれていってよ♪♪♪
何度も書いたけれど、詞というのは音楽のほんのごく一部で、音楽を成り立たせているものは、詞以外にのもたくさんあって、メロディーやリズム、編曲、音、響き、奏でられる場所、etc.、そして聴いてくれる誰かさん。みなさん、どこかで、この歌を、いつか聴いてください。
♪♪♪
悲しみのない星ににつれていってよ
あの娘はいつでもそういうから
おれたち二人で旅に出たのさ
悲しみのない星につれていってよ
あの娘はそんなおかしなことをいう
だから、おれたち二人、旅に出のさ
あーあ、さみしい町ばかり
あーあ、悲しい町ばかり
今夜も憎しみをだれかがあおっている
くたたになったいつもの帰り道
あの娘のことばかりが頭にちらついて
悲しみのない星につれていってよ
あの娘はそんなおかしなことをいう
だから、おれたち二人、旅に出のさ
あーあ、さみしい町ばかり
あーあ、悲しい町ばかり
(間奏)
あーあ、さみしい町ばかり
あーあ、悲しい町ばかり
この星の上、この空の下
この星の上、この空の下
もう少しだけ旅をつづけます
悲しみのない星につれていってよ
差別のない星につれていってよ
戦争のない星につれていってよ♪♪♪
何度も書いたけれど、詞というのは音楽のほんのごく一部で、音楽を成り立たせているものは、詞以外にのもたくさんあって、メロディーやリズム、編曲、音、響き、奏でられる場所、etc.、そして聴いてくれる誰かさん。みなさん、どこかで、この歌を、いつか聴いてください。
こんな夢を見た。ぼくはある人と自分の家で結婚式をあげている。普段着の結婚式で、儀式らしきものはなく、二人の友だちらしき人とお互いの親がいるぐらいの少ない人数で紅茶を飲んでいるだけの結婚式。寂しげなその結婚式で彼女は、淋しさを感じていないだろうかとぼくは気になっている。三々五々、訪れた人は帰っていき、二人になり、彼女は白いソファーに座っていて、ぼくは部屋の隅から彼女の姿を見つめている。なにも話さず、何かおしゃべりした方がいいのかなと思いつつ、ぼくは、もともと無口なのだとだまって、彼女を見ているだけ。気がつくと、あたりは夜になっていて、二人はベッドにあぐらをかいて座っていて、ぼくは、結婚して初めての夜だねと話しかけると、彼女はなにもしゃべらず、自分で服を脱いでいく。ぼくは彼女を抱きしめる。
そこで目が覚めた。この夢は大正時代の耽美小説のような夢だな。夢を書けばぼくも小説家なのです。そうだ、天国の鈴木清順に映画にしてもらおう。
そこで目が覚めた。この夢は大正時代の耽美小説のような夢だな。夢を書けばぼくも小説家なのです。そうだ、天国の鈴木清順に映画にしてもらおう。
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HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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