えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

佐渡岳利監督の『NO SMOKING』を見ました。日本のポップミュージックの巨匠、細野晴臣さんの長い音楽人生を今の音楽活動とインタビューでふりかえるみたいな内容なのですが、ふりかえるというより、細野さん、自分の子どもとか孫みたいな世代のミュージシャンたちとワールドツアーとかしちゃって、今が、音楽そのものが人生のようなそれの最盛期で、とにかく幸せな時なんじゃないの? けれど、そんな若いミュージシャンへかける言葉は、あとはたのんだぞ、が口癖だったりする。渋谷の小さな映画館でこれを見終わって、神泉の駅に向かう途中、悲しいような嬉しいような不思議な気持ちになって、泣きたくなって涙ぐむみたく、ぼくの胸はジーンとしていました。
(ちょっと時間を間違えて、初めの方、少し見そこなってしまった。もう一度、見なかゃ)
映画「NO SMOKING」公式サイト 2019年11月公開


トッド・フィリップス監督の『ジョーカー』を見ました。ダークです。暗いです。視聴注意!
ありっこない話なのに、今というこの時代にぼくが生きているからか、映画を見ながら、怖いようなリアリティーを感じている。
いろんな映画を思い出すのはそれらの昔の映画へのオマージュのようなシーンがちりばめれらてもいるから。ぼくは、ポール・シュレイダー監督の『タクシードライバー』だったり、マイケル・チミノ監督の『ディア・ハンター』、ミロス・フォアマン監督の『カッコーの巣の上で』、フェデリコ・フェリーニ監督の短編『悪魔の首飾り』だったりする。もっといろんな映画を見ている人ならさらにいろいろ思い出すんじゃなかろうか?
ラストの30分ぐらいの暗い悪夢のような群衆のシーンは、映画でしか表現できない世界が圧巻だけど、見終わった後、ものすごく嫌な気持ちになった。それはスタンリー・キューブリック監督の『時計仕掛けのオレンジ』や『フルメタル・ジャケット』を見終わった時の感じに似ている。。そういえば、『フルメタル・ジャケット』の主人公の兵士の名前はジョーカーっていったっけ。近未来か、いつかの過去の時代らしきを描きながら、今の恐ろしさをリアルを表わしているいるかのような『ジョーカー』を見て、その嫌な感じから逃れたくも思って、山田洋次監督の寅さんの映画『男はつらいよ』みたいなのを見たくもなりました。
映画『ジョーカー』オフィシャルサイト


雨宮処凛さんの対談本「この国の不寛容の果てに」を読んでいて、熊谷晋一朗さんがこんなことをおっしゃっておりました。
「「障害者にも生産性がある」という言い方では、優生思想の枠組みの中でしか反論できていないことになるので。年商1億円はもちろん事実なのですけれど、べてるの家が大事にしているのはそこではないでしょう。彼らの働き方を見ていて私が思い出すのは、政治哲学者ハンナ・アーレントが言った、労働・仕事・活動の三類型なんですね。アーレントは、人間の活動には三つあって、労働(Lavor)、仕事(Work)、活動(Action)だと。そのうち労働(Lavor)は、衣食住を満たすためにために不可欠な、ある意味で仕方なくする作業のことで、基本的には動物もしていることです。対して仕事(Work)は、それまでに存在していない作品を生み出して後世に残し、人間の文化に何かを付け加えること。そして、活動(Action)は、政治的なコミュニケーションです。人と人が集まって自分に見える世界を表現しあい、共有された現実をつくりだすこと。アーレントは、この「仕事」と「活動」こそが人間の人間たる条件だと言ったのです」
この次に本では、精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点「べてるの家」で何が本当に大事にされていて、それがいかに画期的かを論じられているのだが、みなさまにはそれはこのすばらしい本で読んでいただきたく伏せておきます。
ぼくもこれからは、生産性がないといわれようとも、労働は少しづつ減らし、仕事や活動を充実させていく道を選ぶぞ。まずは自分のために書いておきます。
ハンナ・アーレントの「エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」はいつか読みたい。
「「障害者にも生産性がある」という言い方では、優生思想の枠組みの中でしか反論できていないことになるので。年商1億円はもちろん事実なのですけれど、べてるの家が大事にしているのはそこではないでしょう。彼らの働き方を見ていて私が思い出すのは、政治哲学者ハンナ・アーレントが言った、労働・仕事・活動の三類型なんですね。アーレントは、人間の活動には三つあって、労働(Lavor)、仕事(Work)、活動(Action)だと。そのうち労働(Lavor)は、衣食住を満たすためにために不可欠な、ある意味で仕方なくする作業のことで、基本的には動物もしていることです。対して仕事(Work)は、それまでに存在していない作品を生み出して後世に残し、人間の文化に何かを付け加えること。そして、活動(Action)は、政治的なコミュニケーションです。人と人が集まって自分に見える世界を表現しあい、共有された現実をつくりだすこと。アーレントは、この「仕事」と「活動」こそが人間の人間たる条件だと言ったのです」
この次に本では、精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点「べてるの家」で何が本当に大事にされていて、それがいかに画期的かを論じられているのだが、みなさまにはそれはこのすばらしい本で読んでいただきたく伏せておきます。
ぼくもこれからは、生産性がないといわれようとも、労働は少しづつ減らし、仕事や活動を充実させていく道を選ぶぞ。まずは自分のために書いておきます。
ハンナ・アーレントの「エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」はいつか読みたい。


香港もそうだけど、チリやバルセロナやレバノンで近ごろ激しく熱いデモが行われている、そんなことも連想させるCafe★Lavanderiaは新宿の末広町の先ををもっと歩いた繁華街にあって、そこで辻村マリナさんのライブ「Make It Throuh the Night 夜をくぐり抜けよう」を見ました。
辻村マリナさん作られたり、作ったりしない、今を歌って今を生きているような歌に、そうだよなと、ほっとしたり、はっとしたりする。パーカッションのらぶたひさんのブラシロッドで叩くパーカッションも手堅く素晴らしかった。ゲスト出演のエリ・リャオさんの歌は環太平洋をめぐる一人ワールド・ミュージックのおもむきの楽しさ。
ラストは辻村マリナさんとエリ・リャオさん、らぶたひさんの歌えや踊れの大円団につづくジョン・レノンの「イマジン」。楽しい夜になりました。


ある居酒屋のようなバーのようなライブバーのようなところで、天皇の代替わりの儀式「即位礼正殿の儀」をインターネットでの中継を見ていると、隣にいた女子から天皇制について意見を求められ、ぼくは、ああいうものは自然にいつかなくなって、天皇は世界平和財団とかの理事長になるといいのでは、と答えたのであった。いつかとは、いつなのかはわからなくて、世界の平和と日本人の幸福を祈る天皇ならば、普通の自由のない天皇陛下にはまったくお気の毒ではあるけれど、そのいつかは永遠に先のばしになってもよいとも思う。すると、若い女子の、天皇さんがいなくなると、日本はばらばらなっちゃうよ、との意見に、ぼくはなるほどと首肯してしまう切迫したリアリズムも感じていたのです。
中継を見ていると、天皇陛下がお言葉を述べられ、その中には、「国民と苦楽を共に」や「国民に寄り添いながら」という言葉もあり、その後の総理大臣の「万歳三唱」という木偶の坊の雄叫びのようなものとの乖離に、ぼくはひどく嫌悪感をともなうとまどいを感じ、困惑してしまう。
この儀式も明治政府によって伝統を切断され、改竄されたのであろうか? 高御座に立たれた陛下の表情にどこか怒りがにじんでいたように感じたのは、ぼくの想像的投影だけであろうか? 陛下の御心を察するのは難しいのだけど。
インターネットで見たところによれば、天皇制反対の声も見られ、デモも行われたらしい。ぼくはその意見にとくに賛成でもないのだけれど、まだ日本は、どこぞの国とは違って、まともな国なんだ、と安堵したのです。
実際に会ってしまえば、陛下とはなぜか、とても親しい友だちとなれそうな気がする不思議。実際に会えば、ぼくは、万歳とはとなえず、近頃はどんなご様子ですか、とご挨拶してしまいそうなのですが。
天皇、皇后、両陛下、ご即位、おめでとうございます。
中継を見ていると、天皇陛下がお言葉を述べられ、その中には、「国民と苦楽を共に」や「国民に寄り添いながら」という言葉もあり、その後の総理大臣の「万歳三唱」という木偶の坊の雄叫びのようなものとの乖離に、ぼくはひどく嫌悪感をともなうとまどいを感じ、困惑してしまう。
この儀式も明治政府によって伝統を切断され、改竄されたのであろうか? 高御座に立たれた陛下の表情にどこか怒りがにじんでいたように感じたのは、ぼくの想像的投影だけであろうか? 陛下の御心を察するのは難しいのだけど。
インターネットで見たところによれば、天皇制反対の声も見られ、デモも行われたらしい。ぼくはその意見にとくに賛成でもないのだけれど、まだ日本は、どこぞの国とは違って、まともな国なんだ、と安堵したのです。
実際に会ってしまえば、陛下とはなぜか、とても親しい友だちとなれそうな気がする不思議。実際に会えば、ぼくは、万歳とはとなえず、近頃はどんなご様子ですか、とご挨拶してしまいそうなのですが。
天皇、皇后、両陛下、ご即位、おめでとうございます。


雨宮処凛さんの編著した「この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代」を一気読みしました。雨宮処凛さんはファンでけっこう著作を読んでいるのですが、この「不寛容の果てに」は相模原での障害者施設で19人もの人が殺された事件に、何らかの意味や形で当事者として関わり続ける人たちとの対談です。雨宮さんの対談のお相手は、自ら障害のある子どものおられるRKB毎日放送記者の神戸金史さん、東京大学先端科学技術センター准教授で小児科医の自らも障害を持つ熊谷晋一郎さん、ずっと医療の問題、尊厳死の問題を追いかけ続けてきたBuzzFeed Japan記者の岩永直子さん、批評家で元障害者ヘルパーの杉田俊介さん、東京都池袋で炊き出しや医療相談も行う精神科医の森川すいめいさん、浦河べてるの家ソーシャルワーカーの向谷地生良さん。日本って何かすさまじくすさんだ国になりつつあるような気がして、希望があるとしたら、それに抗っているこの本で話しているような人や話されている言葉だろうと思い、心を閉ざしたり、単純な言葉を鵜呑みにしてもいけないとも思うのです。
この本を読みながら、ふと思い出したことが一つ。前に努めていた会社の朝会で、部長がやるかやらないか、白黒はっきりさせて行動しろなどと、口角泡を飛ばして檄を飛ばしているのをぼーっと聞いていたら、隣にいたKくんが、サカイさん、ぼくは大概、人間ってのは灰色だと思いますよ、とぼそっとぼくに声をかけてくれました。その言葉には目を覚まされたように感じ、ときおり思い出し、なぜか忘れられません。どうだろう、そのことはこの本と関係はないのかな?
この本を読みながら、ふと思い出したことが一つ。前に努めていた会社の朝会で、部長がやるかやらないか、白黒はっきりさせて行動しろなどと、口角泡を飛ばして檄を飛ばしているのをぼーっと聞いていたら、隣にいたKくんが、サカイさん、ぼくは大概、人間ってのは灰色だと思いますよ、とぼそっとぼくに声をかけてくれました。その言葉には目を覚まされたように感じ、ときおり思い出し、なぜか忘れられません。どうだろう、そのことはこの本と関係はないのかな?


