えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ



「奉納靖國神社夜桜能」を観に行きました。満開を過ぎ、葉も見えだした桜のその花びらが、ときおり目の前を舞っていきます。三日、続けて催される今夜の題目は仕舞に「忠度」、「玉之段」、狂言に今をときめく野村萬斎演ずる「成上がり」、そして、能が「鷺」でありました。
「鷺」の話の筋は難しくなく、夕涼みに来られた帝の御一行の前の水上に鷺が現れ、帝は鷺を捕まえて参れと蔵人に命ずる。翼ある鳥を蔵人はなかのか捕まえられないが、帝の勅命だと鷺にいうと、おとなしく鷺は捕まる。帝は神妙であるとお喜びになり、蔵人と鷺に五段の位を授ける。鷺は喜びの舞を舞い、帝の許しを得て飛び去る。帝の御一行も夕涼みの池の庭を後にする。
すべての演者が舞台から去り、後には能楽堂の松の絵のみ残され、その余韻の深さに静まった心の内が感動し、涙のひとしずくもぼくの頬につたわるようなのでした。素晴らしかったです。






内田樹さんの著した『街場の天皇論』を読む。『代表的日本人』の名著のある内村鑑三の書いたものに『余は如何にして基督信徒となりし乎』があるけれど、この『街場の天皇論』は内田さんの「余は如何にして天皇主義者となりし乎」なのであった。
読みながら、つらつらと今の天皇陛下が即位した儀式で、首相であった「天皇陛下万歳」と手をあげる安倍晋三を睥睨し、まったくの怒気のこもった目で見ていた、その目を思い出した。この本の中の「「日本的状況をみくびらない」ということ―あとがきにかえて」では、三島由紀夫について論じているのだけれど、読みながら、昔、テレビか何かで見た三島由紀夫の市ヶ谷の自衛隊駐屯地での演説をする光景を思い出す。三島は四方八方から自衛隊員の怒りに満ちた罵声をあびせられていた。即位の日に安倍を見据えていた天皇陛下の怒りの目は、三島に罵声をあびせていた自衛隊員の怒りの罵声と通底しているのではないか、という異論を内田さんに提出したいとも思い、本をとじた。
天皇という存在は日本人の意識にものぼらない、けれど、確かにそこにあるエートスなのかもしれない。


