えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
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この前の週末に東京都美術館に「ムンク展―共鳴する魂の叫び」を見に行きました。生涯、二度目の「ムンク展」でぼくは何度も同じ構図と手法で書き直された「叫び」の最終稿の絵を見たのです。薄暗い美術館の中でごーっというような音が聞こえるかのような「叫び」を前にして、たくさんの絵画を見る人を見送りながら、ぼくは立ちつくしてしまう。
なぜか、頭の中ではドアーズのサード・アルバム"Waiting for the Sun"の中のメランコリックなジム・モリソンの歌"Love Street"や"Yes, the River Knows"が木霊のように鳴っていたのです。ムンクの人生、「太陽を待ちこがれて」の人生だったようにも思う。何度も描かれた「日の出」の絵のうちのひとつも見ることができたのだけど、ぼくは、まったくムンクらしくないこの絵が好きです。
ムンク展―共鳴する魂の叫び|東京都美術館
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オープンマイクに歌いに行って、ちかごろいつも思い出す二つの言葉です。
「一期一会」
一期一会とは、一生に一度だけ出会うこと。一生に一度の貴重な出会い。
安土桃山時代、茶人の千利休の弟子である山上宗二が言った「一期に一度の会」という言葉に基づく。
本来は茶道の心得から出た言葉であり、その日の茶会での出会いは一生に一度しかないのだから、それを大切にして誠実な心で人と接するべきだということ。
「一期」は、仏教用語で生まれてから死ぬまでという意味。
「一会」は、主に法要などで一つの集まりや会合のことをいう。
「袖振り合うも多生の縁」
知らない人とたまたま道で袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁であるということ。
人との縁はすべて単なる偶然ではなく、深い因縁によって起こるものだから、どんな出会いも大切にしなければならないという仏教的な教えに基づく。
「多生」とは、六道を輪廻して何度も生まれ変わるという意味。
「多生の縁」は、前世で結ばれた因縁のこと。
オープンマイクが好きです。
貴重な出会いをぼくにもってきてくれるライブ・ハウスやライブ・バー、主催してくれる人、カウンターの向こうのおいしい料理を作ったり、お酒を出してくれり人たち、歌ったりのパフォーマーの人たち、見に来てくれている人たちにありがとう。
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こんな夢を見た。ぼくはどこかのライブ・バーのようなところにいる。ギターのソフトケースをかついでオープンマイクのような催しに来ている。ギターをケースから取り出すと、隣で見ていた人が、大きなソフトケースですね、このレスポールのハードケースがまるごと入ってしまいますよと、声をかけてくる。ソフトケースのチャックを全開にし、ぼくはそのレスポールのハードケースを入れてみると、すっぽりと入ってしまった。ぼくは、大きなケースだったんだ、古くなってしまったけど、やっぱ、できる限りいつまでも使いたいなと思う。
そこで目が覚めた。これはもしかして、ギターケースがハートの象徴だったりするとうれしいな。大きくてやわらかい。
そこで目が覚めた。これはもしかして、ギターケースがハートの象徴だったりするとうれしいな。大きくてやわらかい。
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ジム・ジャームイッシュ監督の「ダウン・バイ・ロー」が深夜のテレビで放映されていて、初めにちょっと見始めたら、おもしろくて、ついラストまで見てしまった。これをぼくが見たのは、確かに大学生のころの今はなき吉祥寺のバウスシアターかどこかで、音楽好き、洋楽好き、サブカルチャー好きの友だちは、みんな、見ていたように思う。
ジム・ジャームイッシュとヴィム・ヴェンダースとアキ・カウリスマキは、ずっとぼくの大好きな映画監督なのです。学生のころ初めて「ダウン・バイ・ロー」を見たのに比べ、今見た方が趣深く、とてもおもしろく感じられたりして、新鮮。へんなもの、アングラっぽいもの好きな学生さんのぼくは、いかにもわかったふりをしていただけなのかもしれないと、見終わったあと、自嘲してしまった。この前、レンタルDVDで見た戦前の日本映画、山中貞雄監督の「人情紙風船」を思い出したりして、ジム・ジャームイッシュ、ヴィム・ヴェンダース、アキ・カウリスマキの三方は、絶対に松竹系の日本映画に学んでいるな。三人のぼくが思う代表作は、ジム・ジャームイッシュが「ミステリー・トレイン」、ヴィム・ヴェンダースが「パリ、テキサス」、アキ・カウリスマキが「コントラクト・キラー」、齢を重ねた今、再び見てみたい映画です。
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横須賀美術館に「矢崎千代二展 絵の旅」を見に行きました。展示されていた絵のほとんどがパステルで描かれた風景画。とても美しい。クレヨンとパステルの区別も判然としないぼくだけど、パステルというチョークみたいなものでここまで表現できるのかと驚く。
高校の美術の時間に高校の隣にあった牧場の牛を描きに行ったことを思い出す。風景画というのは何だか絵を描くことの原点であるような気もするけれど、チューブ入りの絵の具が発明され、それによって初めてできるようになり、その外の光の美しさの発見は美術史でいうところの印象派を生んだそう。矢崎千代二は生涯、旅に生きた絵描きだったそうだ。その旅はユーラシア大陸のすべてにおよび、第二次世界大戦の終結の2年後に日本に戻らず、北京で亡くなっている。風景に美しさを見て、パステルで紙に描くそんな人生も美しいと思います。
横浜美術館には別館に谷内六郎館があり、季節季節に展示を変えているそれを見るのも楽しみ。週刊新潮の表紙でもあった谷内六郎の原画を見ながら、とても懐かしく、美しいのだけれども、谷内六郎描くそんな美しい風景は日本から失われてしまっていることに溜息をついてしまった。
帰りに金沢八景にある瀬戸神社に寄った。昔、勤めていた会社の営業部、制作部と工場の中間地点に金沢八景駅にあり、よくここに来て、お参りしていたことを思い出した。周りの景色は変わりつつも、瀬戸神社の風景は変わっていないことに心休まりました。
瀬戸神社で御朱印をいただき、御神籤をひいてみましたら「六番 中吉」でした。蛍射という人の作の和歌が書かれておりました。歌川広重の金沢八景図「小泉夜雨」に記載されているそうです。
「むらたてる
梢は雨に
ぬれぬれて
かぜの音なき
よはのひと里」
横須賀美術館
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吉本隆明の著した「今に生きる親鸞」を読む。「共同幻想論」のような難しくて理解できないような内容なのかと思って読み始めたら、そうでもなかった。
鎌倉時代の僧、親鸞と一遍には近ごろ、並々ならぬ興味をかきたてられています。親鸞は、自分で自分を救うことはできないからこそ、救われようという言葉を何べんも唱えることも空しく、一度でいいから阿弥陀仏の御加護にすがりなさいと説き、一遍は、阿弥陀仏は世界ののすべての人が救われまい限り私は仏にならないと唱え、阿弥陀仏は仏になったのだから、どんな人も救われている、さぁ、生に歓喜し踊れと唱えた人、というのは未熟なぼくの浅はかな考え。
著者の吉本隆明は吉本ばななさんのお父さんで、とても難解な文章を書く、聡明な知識のかたまりのような思想家、詩人だったのけれど、とても罪深い人だったと思う。というのも、この前、YouTubeで「三島由紀夫vs東大全共闘」というムービーを発見し、見ていたら、登壇した学生のほとんどが「擬制の終焉」で書かれた吉本隆明のような用語で発言していて、何を言っているのか分からなく、彼らの少なからぬ人が自殺したり、その後すぐに死んでしまっていることを知った。けれども、もう、そのような吉本隆明は「今に生きる親鸞」にはいない。
吉本隆明は親鸞を信仰や宗教の人ではなく、思想の人だというのだけど、それには違和感をぼくは持ち、親鸞はすべての人を救いたいと志した人だとも思うのです。キリスト教を普遍にまで高めたパウロのような存在かもしれません。聖書からパウロの言葉。
「人は、正しい行いを積むことによって、神の義と認められて救いに導かれるのではない。人が神の前に義と認められるのは、ひとえに神の子イエス・キリストを信じることによる。律法を守り行う者は、かえっておごり高ぶることになりかねない。しかし、イエス・キリストに現された神の義は、律法を守れない者にも、律法を知らない者にも、救いの可能性を開いたのである。神の子であるイエス・キリストが十字架につけられた意味は、ここにある。これを信じ、これを受け入れるとき、人は無条件で義とされる。神の前には、ユダヤ人と異邦人の区別も、奴隷と主人の区別も、男と女の区別もない」
吉本隆明ではなく五木寛之の「親鸞」から。
「これまで世間に信じられている善行とは、たとえば、大きな塔を建てることや、立派な仏像を造らせることや、そして金銀錦などで美しく装飾された経典などを寄進することや、豪華な法会を催すことなどが善行とされてきたのだよ。身分の高い人びと、ありあまる財産をもつ人びとや富める者たちは、きそってそんな善行にはげんできた。しかし、そんな余裕のあるのは、選ばれた小数の人たちだ。いまさらわたしがいうまでもない。天災や、凶作や、疫病がくるたびに、どれほど多くの人びとが道や河原にうちすてられ死んでいくことか。かつて養和の大飢饉のときには、赤子を食うた母親さえいたときいている。世にいう善行をつとめられる者など、ほんのひとにぎりしかいない。その日をすごすことで精一杯の人びとがほとんどなのだ。そんな人たちを見捨てて、なんの仏の道だろう。法然上人は、仏の願いはそんな多くの人びとに向けられるのだ、と説かれた。たぶん、世間でいう善行などいらぬ、一向に信じて念仏するだけでよい、とおっしゃっているのだ」
愛です。
吉本隆明の「最後の親鸞」も読んでみようかな。
鎌倉時代の僧、親鸞と一遍には近ごろ、並々ならぬ興味をかきたてられています。親鸞は、自分で自分を救うことはできないからこそ、救われようという言葉を何べんも唱えることも空しく、一度でいいから阿弥陀仏の御加護にすがりなさいと説き、一遍は、阿弥陀仏は世界ののすべての人が救われまい限り私は仏にならないと唱え、阿弥陀仏は仏になったのだから、どんな人も救われている、さぁ、生に歓喜し踊れと唱えた人、というのは未熟なぼくの浅はかな考え。
著者の吉本隆明は吉本ばななさんのお父さんで、とても難解な文章を書く、聡明な知識のかたまりのような思想家、詩人だったのけれど、とても罪深い人だったと思う。というのも、この前、YouTubeで「三島由紀夫vs東大全共闘」というムービーを発見し、見ていたら、登壇した学生のほとんどが「擬制の終焉」で書かれた吉本隆明のような用語で発言していて、何を言っているのか分からなく、彼らの少なからぬ人が自殺したり、その後すぐに死んでしまっていることを知った。けれども、もう、そのような吉本隆明は「今に生きる親鸞」にはいない。
吉本隆明は親鸞を信仰や宗教の人ではなく、思想の人だというのだけど、それには違和感をぼくは持ち、親鸞はすべての人を救いたいと志した人だとも思うのです。キリスト教を普遍にまで高めたパウロのような存在かもしれません。聖書からパウロの言葉。
「人は、正しい行いを積むことによって、神の義と認められて救いに導かれるのではない。人が神の前に義と認められるのは、ひとえに神の子イエス・キリストを信じることによる。律法を守り行う者は、かえっておごり高ぶることになりかねない。しかし、イエス・キリストに現された神の義は、律法を守れない者にも、律法を知らない者にも、救いの可能性を開いたのである。神の子であるイエス・キリストが十字架につけられた意味は、ここにある。これを信じ、これを受け入れるとき、人は無条件で義とされる。神の前には、ユダヤ人と異邦人の区別も、奴隷と主人の区別も、男と女の区別もない」
吉本隆明ではなく五木寛之の「親鸞」から。
「これまで世間に信じられている善行とは、たとえば、大きな塔を建てることや、立派な仏像を造らせることや、そして金銀錦などで美しく装飾された経典などを寄進することや、豪華な法会を催すことなどが善行とされてきたのだよ。身分の高い人びと、ありあまる財産をもつ人びとや富める者たちは、きそってそんな善行にはげんできた。しかし、そんな余裕のあるのは、選ばれた小数の人たちだ。いまさらわたしがいうまでもない。天災や、凶作や、疫病がくるたびに、どれほど多くの人びとが道や河原にうちすてられ死んでいくことか。かつて養和の大飢饉のときには、赤子を食うた母親さえいたときいている。世にいう善行をつとめられる者など、ほんのひとにぎりしかいない。その日をすごすことで精一杯の人びとがほとんどなのだ。そんな人たちを見捨てて、なんの仏の道だろう。法然上人は、仏の願いはそんな多くの人びとに向けられるのだ、と説かれた。たぶん、世間でいう善行などいらぬ、一向に信じて念仏するだけでよい、とおっしゃっているのだ」
愛です。
吉本隆明の「最後の親鸞」も読んでみようかな。
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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